家族法Q&A

民事訴訟法

民事訴訟法の招待

Introduction 民事訴訟の全体構造

第1 民事訴訟制度

1 民事訴訟制度の必要性

① 紛争当事者間での自主的な解決の頓挫

② 解決ルールが明確になっていることが当事者の行動予測を与える

 

2 民事訴訟制度の特色

* 個別問題の検討には,これらのポイントを視点とするとよい

① 国家機関である裁判所が担当すること

⇒ 国家は訴訟制度を運営するので裁判所も利害者であるという視点

② 私人間の生活関係に関する法律的紛争を裁定の対象とすること

⇒ 実体法と訴訟法との連続性を視点とする

③ 相対立する利害関係人を関与させて手続保障を図ること

⇒ 当事者の主体性の尊重につながる

④ 終局的,強制的に解決すること

⇒ 公権的な判断には強制的に権利を実現するための強制力が付与

⑤ 手続的制約

⇒ 手続は可及的に安定が求められる

 

3 民事訴訟制度に内在する政策的契機―内在する2つの政策的契機

民事訴訟制度には,Ⅰ当事者に主導権を委ねるべきか(上記②及び③の視点),Ⅱ裁判所に主導権を認めるべきかと(上記①の視点)―いう2つの政策的判断が交錯している

⇒ 2つの対立する要請をどのように調和させる立法政策を採用しているかを理解することが重要!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4 当事者主義と職権主義との役割分担

(1) 概観

訴訟手続は,Ⅰ開始,Ⅱ審理の内容,Ⅲ審理の進行,Ⅳ終了―の4つの段階から構成されている

(2) 開始=全面的に当事者主義!!

訴訟が開始する局面では,全面的に当事者主義を採用するという立法政策

⇒ 246条(⇒訴訟の開始,訴訟の主題提示,提示範囲は裁判所の審理の範囲を拘束するとの規定)

∵ 処分権主義

民事訴訟の対象が私法上の権利を対象とするため,実体法上の私的自治の原則を訴訟法上も尊重させる観点から当事者の意思を尊重するため

 

(3) 審理の内容形成=当事者主義80%,職権主義20%!!

ア 弁論主義[1]

審理の内容面の形成は,80%くらいが当事者主義となっており,これを弁論主義という

(ア) 3つのテーゼ

① 当事者が主張していない事実は,証拠上それが認定できる場合でも,これを判決の基礎としてはならない(主張責任)

∵ 当事者が具体的な事実を主張し,対立当事者がこれに対して反論を加えることにより,当事者相互間での自覚的な争点形成を促すことで,不意打ちのない裁判を実現するため

② 当事者間に争いのない事実はこれを判決の基礎としなければならないこと

(自白法則)

∵ 自白が成立している事実については,裁判所はその真偽を詮索するべきではなく,当事者の意思を尊重するべき

③ 証拠調べを行うには当事者の申出がなければならないこと

∵ 裁判所が職権で事実の存否を検討するのではなく,あくまで当事者が取調べを申し出た証拠に基づいて事実認定することを求めている

(イ) 総合的考察

当事者が審理の内容面の形成に主導権を持っているという基本的視座

∵ 訴訟の主題の提示が当事者の権能かつ責任とされていることに対応し,その主張の正当性をめぐり,具体的な攻撃防御方法が尽くされる審理の内容面について当事者の意思を尊重しようとするもの[2]

イ 釈明権(149条)

当事者の自主的争点形成に委ねた結果,ピンボケした争点が形成される可能性がある

⇒ Ⅰ功利主義[審理の効率性・経済的]観点,及び,Ⅱ人権[手続保障]保護のためのパターナリスティックな観点―からの介入が求められる

* 当事者主義と職権主義との緊張関係と連携関係あり[3]

 

(4) 手続の進行・整理=当事者主義20%,職権主義80%!!

ア 職権進行主義

手続進行についての主導権は裁判所に付与

∵① 人権[公平な裁判を受ける権利]の視点

当事者を離れた第三者期間である裁判所が手続の進行を担うことで公平かつ公正な進行が可能

② 功利主義的な視点

進行の迅速性の確保

イ 責問権(90条)や裁判所の当事者の意見聴取義務(168条)

⇒ 当事者には手続監視権能があり

*ここでも一方の立場を貫徹しているわけではなく緊張ないし連携関係あり[4]

 

(5) 訴訟の終了=判決で終わるのが基本だが,判決で訴訟を終了させるかについての当事者の意思は,100パーセント反映

① 判決

② 当事者の意思による訴訟の終了(⇔訴訟の開始における処分権主義[5]

Ⅰ 訴えの取下げ

Ⅱ 請求の放棄・認諾

Ⅲ 訴訟上の和解



[1] 民訴法で「弁論主義」と言われると所与の概念のように考えがちであるが,あくまで,民事訴訟制度の特色に照らして,審理の内容形成については,おおむね当事者に主導権を与えようという立法政策を意味しているにすぎないということになる。このように,審理内容の形成を一方では,当事者に委ね(弁論主義),他方では,裁判所も権限を留保する(釈明権)というように説明すればよいと考えられる。ドイツ的な概念法学に過度に引っ張られないように注意が必要である。

[2] このように考えてくると,処分権主義と弁論主義というのは,概念,すなわち,身にまとっているブラック・ボックスは異なっているものの,その中で衡量されている具体的利益は,処分権主義と弁論主義とでは基本的には異ならないといえると考えられる。ただ,審理の内容形成の側面に着目して,具体的に考えると,「当事者の意思の尊重が,「当事者相互間での自覚的な争点形成」と敷衍されるにすぎないと理解される。結局,その中身は,私法上の権利義務関係なのであるから,私的自治の原則を訴訟法上も尊重してあげる必要があるいう点で,処分権主義と弁論主義は根底で共通していると考えられる。

[3] 基本的に,民事訴訟制度の目的は,「当事者の意思を尊重した紛争の解決」にあると考えられる。とすれば,かかる目的を達成するために,どのような審理の内容形成の手順を採るのが望ましいのか―という視点から理解していく必要がある。この点,法は弁論主義を明示しているわけではないが,「当然すぎるので明文がない」と理解するのが一般的であるから,基本的には積極的に審理の内容形成について,当事者に主導権を与える立法政策を採用しているものと考えられる。これについて,「当事者の意思を尊重した紛争の解決」という観点から光をあてて考えると,弁論主義という「手段」を採用するのが一番よいと考えられる。もっとも,訴訟追行の際に想定されているのは,自律的で理想的な「合理的一般人」ということになる。しかしながら,現実に訴訟を追行する者が「合理的一般人」といえるかは,20世紀的視点を入れると疑問であることが明らかである。20世紀的視点から「自律的個人などフィクションにすぎない」と強調していくと,審理の内容形成については,むしろ,「当事者に10%,裁判所90%」の方がよいということにもなるであろう(実際,家事審判などはこれに近いものがある)。しかしながら,通常の民事訴訟でそれをやってしまうと,「国家が私人間の紛争には感心を寄せないのが望ましい」という19世紀的な一線すら侵されてしまうことになりかねない。特に,「訴訟の開始」という側面においては,絶対に20世紀的な視点からの制度構築は許されないであろう。もっとも,「審理の内容形成」という側面に限っていえば,上記のような一線とは直ちに抵触する関係を招くものではない。したがって,裁判所の職権の行使が「当事者の意思を無視するものでない限り」,釈明権の行使について,20世紀的な視点を入れることは可能と考えられる。そうだとすれば,釈明権の行使の範囲については,19世紀的価値観を前提とするか,20世紀的価値観を前提とするかでその帰結に差が生じる可能性がある。この点には,釈明権の行使を考えるにあたって十分留意すべきであろう。

[4] この点について少し補足しておきたい。まず,「職権進行主義」という概念であるが,これもともすれば本来の立法者の意図を超えて一人歩きをしかねないブラック・ボックスに入った概念である。したがって,職権進行主義を理解するにあたっては,その中身を具体的に明らかにする必要がある。この点,職権進行主義が採用された趣旨は,当事者進行主義による弊害の防止にある。この弊害を具体的に考えると,訴訟戦術としての「五月雨式進行」が見られ,功利主義的観点から問題があるという点にある。そうだとすれば,裁判所の職権進行主義も基本的には,功利主義的な利益が侵されないようにすることが目的であって,裁判所の独断的な手続の進行を認めることを意味しないということである。そもそも,民事訴訟制度の目的は,「当事者の意思を尊重した紛争の解決にある」と位置付けると,その手続の進行が当事者の意思を尊重しないものであれば,得られる結果ですら当事者の意思を反映しないものになることも十分考えられる。このように考えてくると,裁判所による職権進行主義は,功利主義的な利益と当事者の手続保障や公正な裁判の実現という利益の調和の中に見出されるものであるが,裁判所が訴訟手続に介入してくるという視点からすれば,いわばパターナリスティックの視点(合理的一般人であればどのような手続進行を望むか)の方が重視されるべきで,功利主義を強調しすぎると,裁判所の独断を認め,結果,当事者の人権(手続保障)が侵害されるという方向性に流れることも考えておくべきであろう。

[5] 訴訟の流れの中で,①訴訟の開始⇒②審理⇒③訴訟の終了―という連続性の中で理解しようとすると難しいが,訴訟の開始との2項対立の中で理解すべきものであろう。たしかに,訴訟の開始において処分権主義が採用されていたのは,当事者の意思を訴訟法上も尊重する必要があるからである。というのも,民事訴訟法上,問題とされるのは,私法上の権利ないし法律関係であるから,その実現は当事者の自主的な交渉に委ねられるべきであり,国家が強制的に実現する筋合いではない。このような視点から,訴訟の開始段階において,処分権主義が認められていたわけである。これに対して,訴訟が進行するについて,当事者間で自主的な紛争解決をする機運が生じ,事情が変わってくることもある。そうすると,訴訟の開始段階では,当事者の意思に即した訴訟の展開が事後的に当事者の意思に沿わなくなることもある。もし,この場合に当事者の意思による訴訟の終了を認めなければ,「裁判所が独断で個人の権利を実現してしまう」こととほぼ同様に考えられるであろう。これは,19世紀的視点からみると疑問であり,したがって,訴訟の開始段階で処分権主義という立法政策を採るのであれば,訴訟の終了の段階でもこれを認めるのが一貫するというわけであろう。

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