家族法Q&A

憲法

違憲審査基準論

第4 違憲審査基準論の破壊と創造

1 従来の違憲審査基準論の確認

(1) まとめ

① 厳格審査

表現の自由に対する規制を主要対象とするもので,この審査基準では,まず,立法目的の高度の正当性が問われる。次に,立法目的を達成するのに必要最小限度の規制手段が採用されているかが問われる。

② 厳格な合理性の審査(中間審査)

経済的自由に対する消極規制を主要対象とし,まず,立法目的の正当性が問われる。次に,立法目的と規制手段の間に合理的関連性があるかに加え,事実上の実質的関連性があるかが問われる。さらに,立法目的を達成し得るLRAがないかが問われる。

③ 合理性の審査

経済的自由権に対する積極規制を主要対象とするもので,立法目的と規制手段の双方で立法府の裁量が広く認められ,規制が著しく不合理であることが明白な場合に限って違憲とされる(明白性の原則)

(2) 理論的根拠

① 優越的人権論

精神的自由権と経済的自由権を価値的あるいは機能的に区別する理論

② 規制目的二分論

消極目的と積極目的で審査基準論を区別する理論

* 厳格審査の必要最小限度と中間審査のLRAは何が違うのかという問題もある。この点に関しては,合憲性の推定があるか否かが異なるとする見解が多い。しかしながら,三段階審査論を前提に考えれば,審査基準論が出されるのは正当化論証の段階でしかない。したがって,すでに,発見の分脈における論証は終了しているわけであり,「一応違憲」という評価が行われているわけである。そうすると,一応違憲であるのに,正当化論証の際に合憲であるということが前提とされるのは奇妙なことであるということが分かる。このように見れば,両者には違いはないと整理できるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2 あたらしい違憲審査基準論をめぐって

⇒ いったん上記の分類は忘れてしまおう!!

(1) 考え方の発想―程度問題で考える(保護強度論)

⇒ 原理的な保護強度による区別によるべき

(2) 保護強度がどの程度なのかの考慮要素

① 権利の重要性

② 侵害態様の強度

③ 理論による補強があるか

(3) 目的審査

ア 立法目的とトレード・オフの場合

⇒ 立法目的との関係で,立法目的とのトレード・オフを容易には許さない権利が問題となる場合には,「破壊的害悪の回避」以外に正当化できない(要するに,立法目的が保護しようとする公益と両立しない人権であるために,いずれか一方しか存在できないというトレード・オフの関係にある場合は,憲法的権利が後退を余儀なくされるというのであれば,憲法で保障した意味がなくなる。したがって,憲法の保障が無意味になるような立法目的の達成を目指すのであれば,相当に厳格に審査される必要があるという意味)

イ 立法目的とトレード・オンの場合

⇒ 「目的が重要」であるかを問う意味はあるか

* 表向きの立法目的に隠されている反立憲的な動機をあぶりだす機能がある

* 裏の立法目的は,規制手段との関係であぶりだされる。したがって,目的審査と手段審査は,相補的な関係にあることを理解しておく。

 

ウ 明白かつ現在の危険の基準と目的審査

浦部説は,明白かつ現在の危険の基準は,精神的自由権の目的審査の基準として位置付けている。浦部説は,人権制約の正当化根拠を「他者加害の禁止など」に絞り込んでいる。そのうえで,具体的な人権制約が正当化されるかは,法律が規制の対象としている行為と害悪発生との間の関連性の有無により決定されるとしている。

⇒ 精神的自由権については,規制対象行為と害悪発生との間に明白な関連性が認められなければならない

* 近時,危険発生の蓋然性については,「目的審査」の中で判断されるとする見解が有力化している。これは,どのような趣旨が分からない者もいると思われるが,現実に発生している弊害に対する事後的な対処であれば,すでに事実的因果が判明しているわけであるから,目的には,現実に発生した弊害を設定し,目的と手段との関連性が実質的なものであるかをテストすれば足りるということになる。これに対して,将来の弊害の発生を予防しようという場合は,弊害は現実に発生していない予測的なものになる。したがって,例えば,集会結社の自由が制限されて一応違憲とされる場合に,その制約を正当化するには,どの程度の危険が発生する蓋然性があれば正当化されるかが問われることになる。そして,明らかに差し迫った具体的な危険の発生を予防する目的であれば,目的の重要性を肯定することができる。これに対して,相当高度の蓋然性にとどまる場合であれば,その発生を予防するのは重要ではないという判断が考えられる。このように考えてくると,明白かつ現在の危険の基準というのは,それ自体としては審査基準としての独立の意味はないのではないかという疑問が生じてくる。というのも,制約される利益が「表現の自由」であるから,目的審査で「明白かつ現在の危険」がないと目的の重要性が肯定されないというのにすぎない。そうだとすれば,例えば,制約される利益が「営業の自由」であるとすれば,目的審査で「明白かつ現在の危険」にまで達していなくても,例えば,「相当高度の蓋然性」があればそのような弊害の発生を予防する目的の重要性は肯定できるということになると思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(4) 手段審査

ア 合理的な関連性

合理的な関連性とは,厳密には,合理性と必要性から構成される。合理性とは,観念上の想定として理由があるという程度の意味であり,この程度のテストをクリアできないということはまずあり得ない。したがって,合理性については捨象してもよいと思われる。 次に,必要性とは,立法目的を達成する手段が複数あり得るところ,これらの選択肢から,権利制約の度合いが最も低いものが採用されることを要請する考えをいうものであり,一般的には,必要性のテストを関連性のテストと置き換えてもよいと思われる。

イ 関連性の審査密度

⇒ 手段の関連性を追求すれば,おのずと,必要最小限度の追求となる

* 関連性を追求する審査は,厳格な審査しかないと考えておく

(ウ) 問題の本質―必要最小限度をどのように設定するのか

⇒ LRAは,国家が選択した規制手段にリプレースできないとダメ!!

* 要するに,LRAを立法して同じように立法目的が達成できるかが問題

* 必要最小限度性は,立法目的の実現性との間の比例関係で測定されるものであり,審査の充実のためにも,目的審査がより重要性を帯びることになる。要するに,目的審査において明らかにされた目的が詳細で具体的であれば,それに対するLRAというのも正直見つけるのは難しいし,仮に観念上想定できるLRAを挙げても,目的達成との関係で同じ効用を達成できるかという観点からすれば疑問があることが多いと思われる。

* 逆に言えば,「LRAがある!!」と論証をしたければ,目的の設定を緩やかにするというテクニックを使う必要があろう。目的を具体化せず抽象的なものにとどめておけば,LRAも発見しやすいことは確かであろう。

イ 実質的な関連性

一般的には,合理的関連性の基準は,目的手段の関係を合理的に説明できればよいとするものである。要するに,関連性の程度は観念上の想定で足りるとするのである。これに対して,実質的関連性の基準は,立法事実の検証によって確保される必要性に支えられた合理的関連性を要求する。要するに,観念上の想定では足りずに「中身を伴った必要性」が必要とされているのである。

しかしながら,今後は,実質的関連性で統一してしまって構わないと思われる。というのも,かつては,合理的関連性の基準は,裁判所が立法府の判断に過度に介入しないようにするために,立法事実の審査は厳格審査が妥当する場合に限られるとする考え方があった。そもそも,関連性を判断するには,その関連性を支える事実を検証することが必要であり,基礎的な事実が存在しない限りは,観念上の想定としても合理的とはいえない。むしろ,裁判所の立法府に対する介入として問題となるのは,立法者の価値選択や利益考量の結果を裁判所が否定する場合である。逆に言えば,行政法の判断代置型の判断には,三権分立の見地から問題があるものの,判断過程が合理的かを判断するのであれば,それは,立法府に対する過度の介入とはならないと思われる。したがって,裁判所が立法事実を審査するというのは当たり前というべきである。とすれば,これをするか否かが違う2つの基準を区別する理由はないということになる。ゆえに,実質的関連性の基準に統一して構わないのである。

 

 

 

ウ 目的と手段の相関関係について

現実の国家活動は,抽象的目的を設定し,それを実現するために手段を設定し,今度はその手段を中間目的と位置付けて,その実現のための手段をさらに設定するということがなされている

⇒ 連鎖の中間を省略して,最終的な手段が出発点の目的達成のために実質的関連性があるかを問うだけでは不十分

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

* 具体的なイメージ

① 最終目的

行政の中立的な運営の確保

 

 

 

 

② 最終目的に対する手段(≒中間目的)

公務員の政治的中立性の確保

 

 

 

③ 中間目的に対する手段

政治的行為の禁止

* このイメージを前提とすると,目的を①に設定して,①と③との間の実質的な関連性を検討していくと,勤務時間外の政治活動を許容しても行政の中立的な運営の確保は達成することができるのでLRAがあるということになる。したがって,実質的な関連性は否定される。これに対して,目的を②に設定して,②と③との間の実質的な関連性を見ると,おそらくは,公務員の政治的中立を確保するための政治的行為の禁止であれば,実質的な関連性は認められると考えられる

⇒ 目的・手段の連鎖が続く権利制約の場合は,どの局面を問題にしているかを意識しながら論じる必要がある

 

 

(5) 比例性

比例性とは,意味が分からないかもしれないが,「間引き」を許すということである。要するに,目的と手段がぴったり一致するということはほとんどあり得ない。したがって,目的と手段がどれくらい厳密な一致を求められるかが問題となるわけである。この点,目的が重要であるために,立法者がLRAの検討を怠ることがある。とはいえ,想定されるLRAは観念的にはいくらでも成り立つ。そこで,どこらへんで折り合いをつけるか,という視点からは比例性という視点が出てくるということと思われる。要するに,権利の性質が重要であり規制態様も強度であれば,目的と手段の一致は厳密なものが求められる一方で,逆に,そうでない場合はその一致も緩やかなもので足りるということになろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3 あたらしい厳格審査をめぐって

(1) 厳格審査

立法目的が重要であり,立法目的と規制手段との間に合理的関連性が確保されており,かつ,当該目的が,LRAでは達成することが不可能であることの各論証が正当化論証で求められる。

(2) 厳格審査のイメージ

まず,発見の分脈ですでに一応違憲とされている場合において,正当化論証をする場合に,通常審査をするか厳格な審査をするかに分かれる。これは,理念的には,その違憲性の疑わしさの濃度に応じて区別するということになるが,実際上は権利の性質や規制態様の強弱によって基準を分けていくしかないと思われる。

* 審査基準の設定は,正当化論証の中で行われるが,そのセレクトは発見の分脈における保護強度の考察に大きく依存している。つまり,表現の自由はこんなに重要な権利であるから保護の強度が強いから,審査基準も厳格なものという流れをたどるのである。繰り返すが,これは予備校的な審査基準を選ぶ際の論証とは異なっている。あくまでも,問題となっている当該権利が憲法実体法上,どのような価値をもっており,それがどの程度保障されるべきなのかということをまずもって行うべきである。要するに,裁判所の審査能力がどうというような憲法訴訟論的な視点は置いておいて,問題となっている権利が憲法実体法上,なぜ故に規定されているのかということを追求しておいて,それを審査基準の設定に生かすという方向性で考えられよう。

* ここでは,審査基準という用語を用いているが,むしろ,「憲法実体法上の規範」を定立するという方が正しいものがあると思われる。従来の審査基準論というのは,裁判官の恣意をコントロールするために,「あてはめを硬直化」させることを意図してきたものである。このような前提に立てば,審査基準のセレクトに裁判所の判断能力が高いとか,低い,という論証をして審査基準を導くのも納得できるものがある。しかしながら,なぜ,本来であれば,憲法上の権利は,国家は侵害できないというテーゼがありながら,それについて審査基準をクリアすれば違憲状態が正当化されるのか,という問いに解答を用意するということになれば,それは,憲法実体法の違憲性阻却事由が「審査基準」だからと解答するほかはない。要するに,あてはめの準則と理解される審査基準をクリアすれば,なぜ正当化されるかは十分な論証はなかったように思われる。例えば,経済的自由の積極目的は緩やかに判断すべきであるといって,あてはめの準則である違憲審査基準をあてはめて,「合憲」としたとしても,本当に合憲であるかは疑わしいはずである。裁判所の判断能力が低ければ,憲法実体法上,合憲になるというテーゼを承認するべきいわれはないからである。要するに,これからは,あてはめの準則としての審査基準は放棄され,憲法実体法上の規範としての審査基準の中身が具体的に問われていくべきものと思われる。

* もう少し考えてみると,これまでのあてはめとしての審査基準(従来の公式という)というのは,おそらく憲法実体法上の正当化の要件としては,「公共の福祉」という抽象的な要件を想定していたのではないかと思われる。そして,各権利によって,同じ「公共の福祉」という法律要件の適用の仕方がことなるという趣旨で審査基準論が展開されてきたものと思われる。

これに対して,新しい公式は,おそらくは公共の福祉というのは,刑法でいう正当防衛という言葉の使い方と同じで,それ自体が要件となるものではなく,公共の福祉を満たすという効果が発生するための要件が別にあるはずであり,それは開かれた構成要件であるから,それを裁判所が考えるという発想に変わって行ったといえるのではなかろうか。要するに,従来の公式では,審査基準は憲法訴訟法上の裁判官のためのあてはめのガイドラインにすぎなかったが,新しい公式では,審査基準は憲法実体法の違憲性阻却事由と位置付けられるのであり,それ自体が,憲法実体法上の規範といえるものと思われよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4 比例原則の憲法的位置付けをめぐって

(1) 総論

比例原則をどのような憲法的位置付けを与えるかについては,近時,憲法13条後段の客観法として位置付ける見解が有力化している。また,従来の合憲性判定基準の中においても,比較衡量がアドホックなものとならないように,利益衡量の過程を客観的に方向付けるガイドラインとなるものとして比例原則が注目されている。そこで,以下では比例原則について行政法との重複も問題となり得ようが,検討してゆこう。

(2) 比例原則の内容

① 社会公共の秩序に対する一定程度を超えた危険の切迫性があること[1]

② 公権力発動の程度及び態様は,必要最小限度の手段によること

③ 公権力の権限行使により得られる公共の利益とそれにより失われる利益の適正な利益衡量を要求する原理

* 伝統的な比例原則の理解は上記①及び②のみであるが,その後のドイツの学説で③も付け加えられるように至っている

(3) 比例原則の審査密度

ア 説明

従来の比例原則というのは警察比例原則といわれるように,いわば侵害的な国家行為を中心に適用されていたものである。これに対して,行政国家化が進む今日では授益的な国家行為についても比例原則が妥当するようになっている。このような伝統的な警察目的以外の国家行為に適用される比例原則については,日本の場合は,上記①及び②の判団については,判断余地という実質的な裁量を認めるのが妥当であるとする見解がある(高木光「比例原則の実定化-『警察法』と憲法の関係についての覚書」芦部古稀218頁)。この見解は,①及び②については,具体的な事案において必要な限度には幅があり,その範囲内では一定の裁量が認められるという立場が妥当であるとする。

このような理解は,ある意味で結論において規制目的二分論の理論的根拠ともなり得るものであるようにも思われる。

イ 整理

古典的な警察比例原則適用の場面 行政分野に拡張された比例原則の適用
厳格かつ高度の規律密度を期待できる 利益衡量過程をある程度適正かつ客観的に制約する機能を期待し得る類型

 

 

 

 

 

 

 

(3) 比例原則と具体的事実審査

ア 目的・手段間の比例性だけで十分か

上記②の比例原則の意味としては,2つのものがあると理解されている

① 一定状況の下で想定しうる複数の手段を相互に比較し相手方の権利侵害の程度の最も少ない手段を選択すべき

② 目的と手段は不釣合いであってはならない

* 上記の②は,失われる利益が規制利益に比して過剰であってはいけないという趣旨

* 目的と手段の不均衡の禁止は,目的と手段が最も望ましいことを積極的に求める趣旨ではなく,不適切な関係を排除しようという趣旨にすぎない

* 一定の裁量を認めた上で著しい不釣合いがある場合に限って違法とされる

イ 比例原則と具体的事実審査の連結

しかしながら,上記のような比例原則の審査は,目的と手段との間に著しい不釣合いがある場合のみ排除するものであるから,実効性ある審査が期待できるとは限らない。そこで,個別事案の具体的事実状況に即した利益衡量という条件を組み込む必要が生じる。

そこで,参考となるのがフランス行政法である。フランスにおいてもドイツに類似する比例原則という考え方が旧来から自覚的ではないにせよ利用されていた。そこでの特徴は,3部構成として枠組みが把握されている点である。

* 3部構成のイメージ

① 目的審査

② 規制手段としての行政決定審査

③ 行政決定が行われるに当たっての前提を成す事実状況の審査

* 均衡を確保すべき第3の範疇として,具体的な事実状況の重要性を指摘している。要するに,国家がある立法をしようとするとき,その立法の目的と手段が釣り合っていなければならないのは当然であるが,それに加えて立法の目的と手段が,「具体的事実状況との間で適正な均衡を保たなければならない」と主張するわけである

* このような具体的事実状況に応じた比例原則に理解は,国家における権利侵害の目的及び手段について,抽象的ではなく個々の事案の具体的事実状況に応じて,バランスのとれた正当化論証を必要とするという点で,利益衡量過程の適正化に関する審査密度の高度化に寄与する

* 憲法訴訟論の言葉にリプレースすれば,立法事実論の要素を付加するということ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



[1] 渡辺宗太郎『改訂日本行政法(下)[改訂3版](弘文堂書房,1939年)21頁においては,「警察権による行為の自由の制限は,公共の安寧秩序に対する障害が現に存在するか,又は,かかる障害の近い時点における発生に対する客観的確実性を持つ危険の存在する場合に限る」との叙述がみられ,これは泉佐野市民会館事件の判例の言い回しにも類似し,アメリカの明白かつ現在の危険の基準にも類似するものがある。また,美濃部達吉『日本行政法(下)[再版](有斐閣,1941年)76頁には,「社会上に忍容すべからざる障害が発生し,若しくは,かかる障害発生が相当の確実性をもって迫って来たとき」に許容できるとする。この叙述もよど号ハイジャック事件における判例の言い回しに類似する点があるということは注目されるところである。

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