憲法
- 包括的人権と法の下の平等
-
- 第6章 包括的人権と法の下の平等
Ⅰ包括的人権としての幸福追求権
1 幸福追求権の法的性格
(2) 一般的行為自由説と人格的利益説
① 人権とは
人権とは,個人の人格的・自律的生存のために必要不可欠な利益のこと
人格的・自律的生存とは,自らが最善と考える自己の生き方を自ら選択して生きていくことをいう
② 新しい人権の基準
新しい人権として承認されるためには,ⅰ人格的生存に必要不可欠であること,ⅱその利益の確保が非常に困難であること(侵害の危険の顕著性)
が必要である。
新しい人権は,制憲時にはⅰ又はⅱの要件が欠けていたために人権とされなかったが,時の経過により要件を具備することがある
2 新しい人権
(1) プライバシーの権利
最判平成20年3月6日は,自己情報コントロール権の侵害を理由に住基ネットの運用差止などを求める訴えに対して合憲との判断を示している。自己情報コントロール権は,私的領域に属する情報と同程度の保護を市民に与えるために主張されたものである。
この権利を制約することができるというには,①データ取得の目的が十分に明確に法定されており,②特に目的変更を含むデータの転用や他の機関への提供が禁止されていること,③テータ取得と住基ネットとの間に比例性が認められることが必要と解される。そうすると,単純にプライバシーの外延情報であるから合憲とされたわけではない[1]。また,ドイツ憲法裁2007年2月23日判決は,市当局が設置したビデオカメラによる監視を十分な明確性・特定性を備えた法律による授権が行われておらず,情報自己決定権を侵害し違憲と判断していることが注目される。
(2) 自己決定権
① 個人の尊重とは
個人として尊重するとは,自分の行き方は自己で決定するということを尊重することをいう
⇒国が個人の生き方を一定方向に強制し,画一的な生き方の押付け×
② 自己決定権とは
自己決定権とは,自己がどのような人生を生きるかに関する基本的かつ重要な決定を自分自身で自由に行えることをいう
Ex. 結婚の自由(憲法24条)
③ 自己決定権に対する制約
自己決定権に対する制約としてはパターナリスティックが潜んでいる
違憲審査基準は侵害原理によるベースラインによる通常審査より厳格に!!
⇒ 本人の利益のために本人の権利を制限するという思想は自由主義の下ではもっとも忌避されなくてはならない考え方
Ex. 輸血拒否事件
侵害原理で正当化することは困難で,安易なパターナリスティックは×
(3) 人格権
① 人格権とは
人格権とは,個人の身体的及び精神的な完全性への権利という意味に限定して用いる
② 人格権の権利内容とは
人格権の権利内容とは,身体の侵襲及び精神的苦痛からの自由
①身体的完全性への侵害 ②精神的完全性への侵害 ⅰ強制採血・採尿 ⅱ環境権(騒音など)
ⅰ囚われの聴衆 ⅱ指紋押捺の強制
*指紋押捺は個人情報コントロール権として捉えることもできる
熊本水俣病お待たせ賃訴訟 「各人の価値観が多様化し,精神的な摩擦が様々な形で現れている現代社会においては,各人が自己の行動について他者の社会的活動との調和を充分に図る必要があるから,人が社会生活において他者から内心の静穏な感情を害され精神的苦痛を受けることがあっても,一定の限度では甘受すべきものというべきではあるが,社会通念上その限度を超えるものについては人格的な利益として法的に保護すべき場合があり,それに対する侵害があれば,その侵害の態様,程度いかんによっては,不法行為が成立する」
*表現の自由で名誉を毀損された特定宗教の信者が訴訟を起こす場合に宗教的人格権の根拠として引用されるが,その場合の信者は特定個人ではない。不特定多数の場合は,信者側は負けやすくなることに留意
⇒特定個人への差別か不特定多数に向けられた差別かとパラレル
(4) 適正な行政手続き
31条は刑事手続を対象とした規定であるので,行政手続きの適法性要求は13条による
⇒ 事前告知と聴聞の機会は,自己の利益を守るための最低限の要求
(5) 特別犠牲を強制されない権利
①特別犠牲を強制されない権利
特別犠牲を強制されない権利とは,全体に対する利益のために特定個人が必要以上に犠牲にされないことをいう。犠牲にされた場合は損失補償を請求することができる
②高橋説の考え方
高橋説は,憲法29条3項を財産権でなく生命・身体や人格権にも拡大しようとの意図のもと13条をてがかりに損失補償を認めようという考え方と思われる。損失補償の基礎に公平の原理があり,その具体化として新しい人権として13条で保障しようという考え
Ex.衆議院の委員会で議員が行った発言により名誉を毀損されたと主張して起こした損害賠償請求訴訟
⇒特別犠牲者として損失補償をするのが公平
Ⅱ法の下の平等
視点 そもそも国家が個人に対し何らかの処分を行う場合は,「個人として尊重」したと言い得るだけの扱い方が必要(以下の2つが重要!!)
① 適正処遇
② 平等処遇
1 平等の観念
視点 ① 『同じ状況にあるもの』ということをどのように認定するか
② どのようにすれば同じに扱ったといえるか
* 平等は,「身分制社会の打破」を確立する推進力になる考え方
⇒ かつての身分制の名残のような制度には憲法14条の保護が強く及ぶ!!(芦部121)
(1) 機会の平等と結果の平等
人生の出発点において,すべての個人に平等の機会が与えられる必要(機会の平等)
⇒ 平等に与えられた機会をどのように生かすかは,個人の自由と能力の問題(結果,不平等となっても平等原理違反ではない!![2])
∵ 自由があっての平等という理解が前提。自由と調和するのは,「機会の平等」であり,
「結果の平等」を志向すると,自由な活動の広範な規制が必要となるおそれ
視点 自由と平等の調整は,自由を中心に「機会の平等」(=本人の努力によってはどうしようもない事由に基づく差別)に光を当てて行われるべき
最大判平成20年6月4日(国籍法違憲事件)[3]
父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得するか否かということは,子にとっては自らの意思や努力によっては変えることのできない父母の身分行為に係る事柄である。したがって,このような事柄をもって日本国籍取得の要件に関して区別を生じさせることに合理的な理由があるか否かについては,慎重に検討することが必要である[4]。 (2) 形式的平等と実質的平等
視点 他人と比較するときにどこまで個人の具体的事情を考慮するべきか(あまりに抽象的なレベルで考えると平等待遇が行われていると評価される場合が増える)
a なぜ「結果の不平等」が生じるのか
① 機会を生かす能力や努力の違い
日本国憲法の解釈学では,この点を非難することはできない(なお,今日の法哲学では,「天賦の能力(例えば,美人で女優になれるなど)により生じる結果の不平等」は正当化できず分配の対象となる,する見解が有力になっている)
② 機会の不平等
19世紀後半以降,「結果の不平等」の原因は,貧しい者が努力をしていないからではなく,機会の不平等にあるのではないかという問題意識が強くなった
高橋説 個々人が置かれた具体的状況を考慮して,現実に機会を利用しうる実質的な「機会の平等」を保障すべき。スタートラインの実質的平等が実現されない限り,結果の不平等は「不正義」であり,正当化されない
(3) 「権力からの自由」から「国家による平等」へのシフト
平等権は,国家による不平等処遇からの自由として観念されたものであり,自由権的に理解されていた。「形式的平等」か「実質的平等」かという議論も結局は,「権力からの自由」という分脈で理解されていた。ところが,実質的平等こそが憲法の要請であるとすると,形式的別異処遇が場合によって許されるというにとどまるものではなく,必要でさればすべきであるという論理への展開が見られた。これは,国家は実質的不平等という憲法違反の状態が生じているときは,それを解消するための積極的な措置を採るべき義務があるという議論につながる。これを,アファーマティブ・アクションという。
注意しなければならないのは,たしかに,アファーマティブ・アクションは,実質的平等の分脈から導かれるものであるが,その基礎は「権力からの自由」ではなく,「国家による平等」という点にシフトしているという点である。そうすると,アファーマティブ・アクションは一般的に優先処遇の対象となる人以外の行為制限をともなう可能性があることからしても,平等権に「優先処遇を受ける権利」までは含むとは解されていない。しかも,アファーマティブ・アクションは,「国家による平等」という分脈を基礎に置いているから,これが行き過ぎると逆差別として,根本である「権力からの自由」が揺らぐ可能性がある。
大阪地判平成20年1月23日(在日朝鮮人教育事業廃止事件)
本件は,原告子どもらが高槻市による多文化共生・国際理解教育事業の縮小・廃止によりマイノリティとしての教育を受ける権利を侵害され,精神的損害を被ったとして慰謝料請求をする事案である。子どもらは,マイノリティの教育権を,「公の費用負担のもとマイノリティとしての教育を受け,その言語を用い,その文化について積極的に学ぶ環境を享受できる権利」と定義し,これが国際人権規約やその他の条約等により保障されているとして,本件事業の廃止・縮小は,この権利を侵害するものであって違法と主張する。 憲法26条1項は,教育を受ける権利を保障しており,これに基づく旧教育基本法3条1項は 「すべて国民は,ひとしく,その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって,人種,信条,性別,社会的身分,経済的地位又は門地によって,教育上差別されない 」と規定する。これにより,国は,国民の教育を受ける権利が現実に保障されるよう教育制度を維持し教育条件を整備すべき法的義務を負うが,これらの規定が,直ちにマイノリティとしての教育を受ける権利まで想定していない。また,憲法26条1項及び旧教育基本法3条1項は理念を掲げるにすぎない。そうすると,マイノリティの教育権という具体的な権利を直接保障しているとはいえない。マイノリティの教育権に具体的権利性がない以上,事業の廃止・縮小による権利侵害を観念できない。
2 日本国憲法における平等保障
(1) 解釈上の諸論点
① 「法の下の平等」とは法の適用における平等を要求するのみか
○ 法内容平等説
② 14条の平等要求は,例外を許さない絶対的・機械的なものか
○ 相対的平等説
③ 人種・信条などの列挙は,例示か限定的か
○ 列挙事項は例示にすぎず,それ以外の差別も禁止されると解している
(2) 列挙事項の意味
(ア) 人種
(イ) 信条
内心の信条が外部的な行為として表れた場合は,その外部的行為に着目して区別処遇をすることは,信条に基づく区別とは異なる。ただし,行為による区別が単なる口実にすぎず,真の狙いが信条の差別にある場合は別である(君が代事件の多くはこのケース)
東京地判平成20年2月7日(君が代再雇用拒否事件)
都教委が,再雇用職員の選考にあたって有する裁量は,当該不合格に客観的合理性や社会的相当性が著しく欠ける場合には,裁量を濫用,逸脱したもので違法となる。 原告らが再雇用職員の採用選考で不合格とされたのは,本件職務命令(君が代斉唱命令)に違反したという事実をもって,勤務成績が良好とされなかったからである。本件職務命令は適法なものといえるから,これに違反したという事実が,原告らの退職前の勤務成績が良好であるか否かの判断において,消極要素として考慮されることはやむを得ない。
しかしながら,原告らの職務命令違反行為は,君が代を斉唱しなかっただけで積極的に式典の進行を妨害する行動に出たわけではない。また,本件職務命令は他の職務命令と異なる重大な意義があるわけではない。そうだとすれば,都教委が非違行為と判断するのも,国歌を斉唱しなかったという行為に尽きるから,原告らが日の丸を国旗として認めず,君が代を国歌として認めないというような考えを有していることが問題であるとして,これを勤務成績が良好でない理由として判断しているのではないはずである。しかるに,都教委が本件職務命令の違反のみをもって,原告らの勤務成績を良好でないとした判断は,本件職務命令と卒業式等における国歌不斉唱という行為を,極端に過大視したものである。(ウ) 性別
a なぜ,『男女の役割論』に関する伝統的偏見はなかなか解消されないのか
∵ 人為的に形成された文化的差別が身体的な差に結び付けられて論じられるから
もっとも,近時はフェミニズムの主張の高揚によって,肉体的な性差と文化的な性差を区分けする努力がなされ,徐々に,「男女の役割論」の欺瞞は暴かれつつある
b 未だ残る女性差別規定
① 婚姻年齢に男女差を規定した点(民731条)
② 女性のみに再婚禁止期間を定めた点(民733条,これを合憲とした最判平成7年12月5日判時1563号81頁があるが,疑問である)
(エ) 社会的身分
a 『社会的身分』の意義
狭義説は,出生により決定されているという点に限る
広義説は,後天的な地位でも長期に持続する地位までは含むとする
Ex.尊属・卑属,非嫡出子といった地位
最大判平成20年6月5日泉徳治裁判官の補足意見[5]
国籍法3条1項は,日本国民の子のうち同法2条の適用対象とならないものに対する日本国籍の付与について,「父母の婚姻」を要件とすることにより,父に生後認知され「父母の婚姻」がない非嫡出子を付与の対象から排除している。これは,日本国籍の付与に関し,非嫡出子であるという社会的身分と,日本国民である親が父であるという親の性別により,父に生後認知された非嫡出子を差別するものである。 この差別は,差別の対象となる権益が日本国籍という基本的な法的地位であり,差別の理由が憲法14条1項に差別禁止事由として掲げられている社会的身分及び性別であるから,強度の正当化事由が必要であって,国籍法3条1項の立法目的が国にとり重要なものであり,この立法目的と,「父母の婚姻」により嫡出子たる身分を取得することを要求するという手段との間に,事実上の実質的関連性が存することが必要である。
(3) 別異処遇の合理性を判断する枠組み
(ア) 比較の対象
まず,「誰と誰」が差別されているかを明確にすることが必要
(イ) 差別の基礎
他人と比較して差別されているということが分かった場合,「何に基づく」差別か
∵ 差別事由によっては審査基準が異なってくる(人種を理由とする差別は,「疑わしい
区分」として厳格審査となる)
(ウ) 権利の性格
差別が「いかなる権利・利益に関して」なされているかを検討する
∵ 重要な権利・利益についての差別は,厳格な審査をすべきだから(投票権や精神的自由などのファンダメンタルな権利は,厳格審査)
(エ) 目的・手段の審査
合憲というためには,目的が正当で,かつ,手段が目的に適合したものである必要
視点 平等権侵害が問題となる場合,多くは目的の重要性は認められるが,別異処遇される個人集団の範囲を画定する線引き基準が目的に適合していないことが多い。
過大包摂⇒ 目的達成に必要とされるより広い範囲の個人を別異処遇集団に取り込んでいる場合(国籍法違憲事件参照)
過少包摂⇒ 目的の達成に必要とされるより狭い範囲を画定している場合
高橋説 列挙事由に該当する場合は通常審査,それ以外は緩やかな審査。そのうえで参政権や精神的自由権などの重要な人権について別異処遇を行っている場合は審査の厳格度を高めるべき
前掲泉徳治裁判官の補足意見
2 国籍法3条1項の立法目的は,父母両系血統主義に基づき,日本国民の子で同法2条の適用対象とならないものに対し,日本社会との密接な結合関係を有することを条件として,日本国籍を付与しようとすることにあり,目的自体は正当なものということができる。 3 国籍法3条1項は,上記の立法目的を実現する手段として,「父母の婚姻及びその認知により嫡出子たる身分を取得した子」に限って日本国籍を付与することを規定し,父に生後認知された非嫡出子を付与の対象から排除している。
しかし,「父母の婚姻」は,子や日本国民である父の1人の意思では実現することができない要件であり,日本国民を父に持ちながら自己又は父の意思のみでは日本国籍を取得することができない子を作り出すものである。一方,日本国民である父に生後認知された非嫡出子は,「父母の婚姻」により嫡出子たる身分を取得していなくても,父との間で法律上の親子関係を有し,互いに扶養の義務を負う[6]関係にあって,日本社会との結合関係を現に有するものである。
上記非嫡出子の日本社会との結合関係の密接さは,国籍法2条の適用対象となっている日本国民である母の非嫡出子や日本国民である父に胎児認知された非嫡出子のそれと,それ程変わるものではない。また,父母が内縁関係にあり,あるいは事実上父の監護を受けている場合においては,父に生後認知された非嫡出子の日本社会との結合関係が嫡出子のそれに実質的に劣るものということは困難である。
そして,上記非嫡出子は,父の認知を契機として,日本社会との結合関係を発展させる可能性を潜在的に有しているのである。家族関係が多様化しつつある現在の日本において,上記非嫡出子の日本社会との結合関係が,「父母の婚姻」がない限り希薄であるとするのは,型にはまった画一的な見方(=過大包摂)といわざるを得ない。
したがって,前記の立法目的と,日本国民である父に生後認知された子のうち「父母の婚姻」により嫡出子たる身分を取得したものに限って日本国籍を付与することとした手段との間には,事実上の実質的関連性があるとはいい難い。
[1] 調査官のコメントは,「個人に関する情報の開示又は公表が憲法13条により保障された自由の侵害となるのは,『みだりに』された場合であるところ,本判決は,住基ネットで取り扱われる本人確認情報の秘匿性の程度,行政目的の相当性,システム技術上又は法制度上の不備による情報漏えい又は目的外利用の具体的危険性の有無,程度などに照らして,住基ネットの運用によって,『みだりに』,すなわち,憲法13条の保障する個人の尊厳などを脅かすような態様で個人に関する情報の開示又は公表が行われる具体的な危険があるとはいえないと判断したもの」とコメントしている。
[2] この考え方は共産主義を否定しているということができる。つまり,個人の努力の有無にかかわらずすべて同じ結果を享受することができるという考え方は日本国憲法の解釈論としても妥当ではない。もっとも,結果の平等は原則保障されないとしても,機会の平等の保障は徹底しなければならない。ともすれば,「結果の平等は保障する必要はない」という論客の主張には「機会の平等の保障も必要ない」という主張が潜んでいることが多い。しかしながら,それは封建的な身分制の復活を目論む見解であり到底認めがたい主張といわなければならない。他方,私たちは,結果の平等を原則否定するとしても,セーフティ・ネットという視点から,最低限の結果の平等は是認されるという点も見逃してはならない。重要なのは利益調整的な視点であり,これを無視した議論は極端かつ一方的であり,相当でない。
[3] 国籍法違憲事件で3段階論証をするとすれば,まず問われなくてはならないのは,父親が日本人の非嫡出子には,日本国籍を取得する権利を有しているか,すなわち,国籍に対する権利に憲法的保障が及んでいるかが問われなければならない。この点,憲法10条をみると,日本国民の要件は法律で定めると書いてあるにとどまっている。したがって,10条を形式的にみると,日本国籍を取得する権利というものは憲法上の権利として保障されていないとも思える。しかしながら,そもそも,憲法は国民主権を採っているので,憲法を制定したのは国民である。そうだとすれば,論理的には憲法制定以前に国民が存在しているということになる。したがって,前国家的な存在として国民というものは考えられる。それゆえ,論理的には憲法上の国民というものが存在し,法律の役割はそれを確認するにとどまるものと解される。したがって,父親が日本人の非嫡出子であれば,日本国籍を請求する権利が憲法上保障されているということになる。次に,第2段階について考えると,上記のように憲法上の保障が及んでいるにもかかわらず,国籍法は,非嫡出子については,国籍を付与しないという規定を置いている。かかる規定は,Xの国籍を請求する権利を制約しているものと位置付けられる。そこで,第3段階として,これを正当化することができるかが問題となる。この点について,正当化するには,例えば,重国籍をできる限り避ける必要があるので,片親が日本人の場合にすべて認めるわけにはいかないというのであれば,どの限度までどのように制限されるのかが憲法上問われるということになる。すなわち,国籍に対する憲法上の権利の及ぶ範囲が血統と生地によって画され,その範囲内に入った者について,どこまでの制限が正当化されるかという問題把握をすべきであると考えられる。
[4] 自らの意思や努力によって変えることのできない特性に基づいて差別をするという態度を示すと,それが差別を容認しているという態度を象徴させることになる。そうすると,社会的な偏見を再生産することになりかねない。したがって,これを「疑わしい区分」というかは別として,そのような区別の取扱の合理性については,特に慎重に立法目的の正当性及び立法目的と立法手段との関連性を検討する必要があるとする最高裁の立場が示されている(長谷部)。
[5] 子の立場から見れば,胎児認知を受けることや父母が婚姻することは,自己の意思によって左右することはできないことであることを考慮すると,社会的身分に基づく差別と捉えることも可能であろう。そうだとうすれば,より厳格な審査がなされるべきとの見解がある(芦部133)
[6] 泉裁判官の補足意見の特徴は,認知だけでも扶養義務が生じるので密接な結びつきがあるといえるとしている点である。これは,多数意見ははっきりと述べていないので,この点を補足しているものと考えられる。つまり,泉裁判官は,認知だけでも日本社会との結びつきは十分であろうということを指摘しているわけである。したがって,国籍法改正について認知に加えてプラスアルファの要件が求められた場合は,泉裁判官の補足意見からは,新たなる憲法問題を提起する可能性があるということになる。
- 第6章 包括的人権と法の下の平等