家族法Q&A

憲法

精神活動の自由(2)―表現の自由の法理

第8章 精神活動の自由(2)

Ⅰ表現の自由

A)表現の自由の体系的位置

1 表現の自由の基礎づけ

表現の自由を個別人権として保障する意味は,ⅰ自己実現とⅱ自己統治にとって不可欠だから

 

ⅰ自己実現の価値 ⅱ自己統治の価値
表現の自由は,他社とのコミュニケーションを通じて,自己自身や自己を取り巻く環境を理解し,その過程の中で自己を自律的に規定し,規定した自己を実現していくという,プロセスに必要不可欠 人間は,共同社会を形成して生きており,その中では社会的な共同決定の影響を受けることになる。そこで,共同決定への個人の参加の実効性を高めるためには,表現の自由なくして実効性を持たない

 

 

 

 

 

 

 

2 現代社会における表現の自由の意義

① 表現者と受領者との間の利害対立が生じることになった[1]

② 国民の側からすると,情報を受け取る場面(知る権利の問題)と情報を発信する場面(メディア・アクセスの問題)の両方で問題があり

∵ 20世紀に入り,表現者と受領者の分離・固定化が進み,コミュニケーションは一方的なものとなった

(1) 国民の知る権利[2]と情報公開法

(ア) 国家との関係

a 知る権利と国家秘密

知る権利は,特に自己統治・政治参加に必要な情報について強調されるようになり,その情報源である国家に対する要求として観念されるようになっている。

国家秘密は,一定期間秘密にするべき情報が存在することも事実であるが,これを口実に本来国民に伝達されるべき情報までが行政の都合を優先して秘匿されることが起こりがち

⇒ 法律の解釈でも,「守秘義務」の対象は限定して解釈されるべきで,「形式秘」ではなく,そのうち真に秘密にする必要のある「実質秘」に限定解釈がなされている(最判昭和53年5月31日刑集32巻3号457頁参照)

 

b 情報公開制度

情報公開制度は,「知る権利」の社会権的側面と説明することが可能

Ex. 情報公開法

(イ) マスメディアとの関係

視点 国民は,マスメディアに対して「知る権利」を主張できるか(20世紀的視点を入れると,表現者と受領者の地位の分化が進んで,両者の間に19世紀にはなかった利害対立が生じるようになり,例えば,マスメディアにとって不都合な情報については,マスメディアが「報道しない自由」を有することになるが,これは,国民の「知る権利」との緊張関係を有することになる)。そこで,この両者の利益を調和させるために,国家は法律をもって介入することはできるかという問題

① 出版メディア

出版メディアに対しては,国家の介入は否定され,国民の「知る権利」の確保は,報道の自由に基づく競争を通じて実現されることが期待される

② 放送メディア

放送法3条の2は,放送番組の編集に当たっては,「政治的に公平であること」(2号),「意見が対立している問題については,できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」(4号)が要求されている。

∵ マスメディア報道は,国民の知る権利に奉仕するものであり,テレビ電波は希少であり公衆の知る権利のために放送すべき責務を負う。また,テレビ放送は,スポンサーの広告によって支えられているから規制が行われない場合には,スポンサーの利益になるよう放送が行われ,番組が低俗化し視聴者の利益が損なわれる。しかも,放送は社会的影響力が大きい

評価 両者の違いは,周波数の有限性・稀少性や映像の衝撃力などを理由に正当化されているが,最近の技術発展によりこうした正当化を疑問視する見解も有力[3]

 

(2) アクセス権

(ア) 反論権

a 憲法上反論権は認められるか

反論権とは,一定の場合には既存のマスメディアを通じて市民が表現をすることを権利として認めるという考え方をいう

∵ 反論権は,上記で述べた私人間の利益調整と位置付けられるので明文の根拠なしにこのような権利を基礎付けることはできない(サンケイ新聞事件[最判昭和62年4月24日民集41巻3号490頁]も「法律に根拠のない反論権は認められない」とする)

b 法律で反論権(アクセス権)を認めることはできるか

フランスは,法律で一定の場合に反論権を認める立法政策を採用している

アメリカ最高裁は,反論権を保障したフロリダ州法を新聞社の編集権侵害で違憲

日本の通説は,法律を制定して反論権を認める立法政策を採用することは違憲であるとするが,放送については,電波の稀少性や国民に対する影響力の程度,対抗言論による思想の自由市場論の機能が限定的であることから,出版メディアと異なり反論権を法律で認めることが許されるとする見解が有力[4]

(イ) インターネットの可能性(21世紀的思考の萌芽)

a 先述のように19世紀から20世紀にかけて受け手と送り手の地位は分離し固定化したが,21世紀のインターネットの発達は,再び市民がマスメディアに対抗して送り手としての地位を回復する可能性を秘めている

b 他方で,インターネットは匿名性や容易性から名誉毀損的表現やプライバシーを侵害する「有害表現」が氾濫している社会的実態がみられる。これが通常の新聞などの出版メディアとは異なる問題を生じさせている(新聞の記事は,最近は署名記事がほとんどになっているし,市民が新聞を通じて表現することも容易とはいい難く,知識層による発信が大勢を占めるので,もともと名誉毀損的表現などの有害表現は少ないという違いがある)

⇒ 従来の表現の自由論の抜本的再検討の可能性[5][6]

B)表現の自由の保障の範囲と程度

 

① 二段階で考える

 

ⅰ表現の自由の及ぶ範囲(射程)を画定する

 

 

 

 

 

ⅱ射程に入ってきた表現行為についてその表現価値に対立する価値を比較衡量する

 

 

 

 

 

*比較衡量して保障される表現かを決めるというアプローチ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1 表現の自由の範囲

(1) 発信行為

ア 表現方法の拡大

事例 髪型や服装などの方法

(ア) 原則的処理

原則 表現にあたらない

例外 象徴的表現にあたる場合

(イ) 象徴的表現の定式

『言論』とは区別された『行動』にすぎないが,一定の状況の下に意見表明の手段として言論として行われ,受け手もそのように理解している行為をいう

イ 嫌がる相手に無理に表現を受け取らせる権利

∴ ない

∵ 『送り手』がなした表現を受け取るかどうかは,『受け手』が決めること。表現の自由市場は,こうした『送り手』と『受け手』の対等性を前提にして初めて成立

* 囚われの聴衆の法理[7]

* 福岡高裁那覇支判平成7年10月26日[8]

(2) 表現内容の拡大

わいせつ表現,名誉毀損的表現,プライバシー侵害的表現,商業広告も表現の自由の射程に入る

 

(3) 時間的拡大

①準備的行為は,表現の自由の保障に入るか

判例は,「尊重する」としており,一応表現の自由の射程に入れている

②表現を受け取る自由は,表現の自由の保障に入るか

受け手が受け取ろうとすれば,受け取りうる状態に置くことまでは妨害されない権利を含む

 

(4) 表現受領行為

ア 表現受領補助行為への拡大

特定の方法(メモ)で表現を受領することを規制することは,表現を受け取る自由の侵害となりうる(レペタメモ訴訟)

イ 情報の受領を国家により制限される場合

∴ 『送り手』と『受け手』との間のコミュニケーションを『第三者』が遮断されることはできない

∵ 第三者からコミュニケーションを遮断されてしまうと,人々は表現の自由の自律的な『受け手』とはなれないことになる。そして,国家が許可した表現のみの『受け手』となることを余儀なくされるのでは,『囚われの聴衆』となっていると評価できる

*問題点[9]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

C)表現の自由の限界―類型論のアプローチ

『表現』の射程を広くとって比較衡量をするのが今日のアプローチ。

しかし,アドホック・バランシングでは予測可能性なし

⇒ できる限り客観的な判断を可能にし,人権保障を確実にするため,類型を設定し利益衡量の方向付けをする

 

1 事前抑制と事後抑制

(1) 事前抑制の原則禁止

事前抑制の問題点は,ⅰ事後抑制と比べると,規制の範囲が広くなること,ⅱ事前抑制は,判断が抽象的・憶測的になるので,許可権者の主観的・恣意的判断の余地が広くなり,公権力に不都合な表現が妨害されること,ⅲ事前抑制の場合は,不許可処分が取り消されるまで表現ができず,タイムリーさを失い,表現としては致命的となること

(2) 検閲の禁止

(ア) 事前抑制と検閲の関係

事前抑制の原則禁止は,1項の保障する表現の自由から当然出てくる原理であり,2項は,事前抑制の特定の形態である検閲を絶対的に定義したもの,という関係

(イ) 検閲の定義

検閲とは,行政権が主体となって,思想内容などの表現物を対象にし,発表の禁止を目的として,網羅的一般的に発表前に内容を審査し,不適当と認めるものの発表を禁止することをいう(税関検査事件判決)

 

2 内容規制と内容中立規制

☆審査基準のメリハリ

表現内容規制 内容中立規制
厳格な審査

∵権力者が自己に都合の悪い表現内容を規制したと疑われるから

ベースライン

∵左記の疑いが弱いから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(1) 内容規制

①内容規制の重要な区別

内容規制の重要な区別として,ⅰ見解規制か主題規制か,ⅱ低価値表現か高価値表現か―がある

(ア) 見解規制か主題規制か

  見解規制 主題規制
定義 見解規制とは,様々な見解がある中で特定の見解のみを禁止するという規制をいう 主題規制とは,ある主題に関してどの見解を採るか関係なしに,表現を禁止することをいう
審査基準 きわめて厳格な審査が必要 他の回路が開かれている限り,内容中立規制と同じでよい
理由 特定の立場を公的議論から排除するもので,自己統治・民主政治の理念に反するし,政府が自己に都合の悪い表現を抑圧する危険性ある 時・場所・方法と結合してなされる場合は,公的討論の場に向けて表現する回路がある限り,制約される程度は,内容中立規制と変わらない

 

 

 

 

(イ) 低価値表現か高価値表現か

  低価値表現 高価値表現
区分 わいせつ表現は自己統治の価値の関連性がない 政治的表現は自己統治の価値に密接に関係するから

 

①表現の価値が低いとは

表現の価値が低いとは,一般的には自己統治の価値との関連性が薄いのではなく,社会的害悪に着目されている

⇒ 社会的害悪を口実に表現が規制されてきた!!

②低価値表現で重要なことは

低価値表現で重要なことは,通常の表現と同程度の保障が与えられないにしても,許される場合とそうでない場合を明確にして,恣意的適用と萎縮効果を除去すること

⇒ 定義付け衡量のアプローチ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

☆低価値表現の定義付けアプローチ(1)

わいせつ表現 名誉毀損的表現 プライバシー侵害
わいせつとは,いたずらに性欲を興奮又は刺激させ,かつ,通常人の正常な性的羞恥心を害し,もって,善良な性的道義観念に反することをいう[10] 名誉毀損的表現でも刑法230条の2第1項で違法性が阻却される枠組みが規定されている 名誉毀損の考えを参照して違法性阻却の枠組みを適用する
最高裁の定義付けは成人との関係では広すぎ[11] 対抗言論による回復が可能 対抗言論による回復が不可能[事前差止が有効]

*概念上,公表内容が真実である場合はプライバシー侵害表現,虚偽である場合は,名誉毀損的表現と区別を明確にすること

 

☆低価値表現の定義付けアプローチ(2)

営利的言論 ヘイト・スピーチ
∴ベースラインでOK!![12]

∵アメリカでは,経済的自由に関しては,緩やかな基準が妥当するのに対して,日本では消極目的規制の場合,経済的自由であっても厳格な合理性の基準が妥当する。それゆえ,経済的自由の問題ととらえてベースラインで審査すれば足りる

アメリカ ヨーロッパ
ヘイト・スピーチは,言論にとどまっている

⇒言論の保護を重視し,対抗言論が原則

∴規制は違憲

ヘイト・スピーチは,差別行為である

⇒少数者の保護を優先し,処罰の対象とする

∴規制は合憲

* 商業広告について[13]

視点 営利的言論について考えるには,その具体的害悪に着目することが重要(政府は,情報を受け取る側の利益を考えてどこまで後見的な見地から介入できるかが問題)

○ 営利的言論が提供する情報が詐欺的である場合は介入が肯定

∵ 消費者の健康を害する情報を提供しない場合,表示を強制すること,すなわち,告白強制は原則として許容される

* ヘイト・スピーチについて[14]

合憲論 違憲論
①反人道主義的言論は保護されない

②表現の価値が少ない

③差別意識を解消する必要がある

①犯罪行為すなわち犯罪構成要件が不明確

②制定の法技術的に困難

③濫用のおそれがある

④強制によって差別は解消されない

⑤差別発言認定を裁判所に委ねるのは危険

⑥少数者についての言論も自由である必要

 

③名誉毀損の成立を限定する法理

・現実の悪意の法理とは,表現者が事実を真実でないことを知っていたか,又は,簡単な調査で真実ではないと知りえたのに調査をしなかった場合に現実の悪意が認められ,かつ,現実の悪意の存在を,名誉毀損の成立を主張する側が立証しなければならない,という法理のこと

⇒ 日本は,相当の理由を要求し,表現側に証明責任を負わせる

・公人理論とは,現実の悪意の法理を私人であっても社会的な名士や有名人に適用する理論をいう

⇒ 月刊ペン事件判決は,「公共の利害」にあたるかを重視しているが,むしろ,公人はメディアへのアクセス権をもっており,対抗言論による反論が可能であるから,国家が安易に介入すべきでないことが根拠

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(2) 内容中立規制[15]

① ベースライン審査で足りる理由

内容中立規制がベースライン審査で足りるのは,恣意的な表現規制のおそれが少なく,特定内容の表現が完全に思想の自由市場から閉め出されることがないから

② 内容中立規制でも極めて厳格な審査による場合とは

法文上は,内容中立的に作られていても,特定内容の表現が市場から締め出され,特定内容の表現に極めて不利に働く場合

⇒ 内容規制と同様に扱い極めて厳格な審査による!!

*立川反戦ビラ事件(最判平成20年4月11日裁判所時報1457号6頁)[16]

③ 付随的規制

付随的規制とは,表現活動の規制とは関係ない何らかの弊害をもたらす行為を規制する目的で禁止した結果,付随的に表現行為も規制された場合をいう

 

☆付随的規制の違憲審査基準

純粋な付随的規制 ・現実に規制対象の多くが表現行為

・目的が藉口されている場合

ベースライン審査 きわめて厳格な審査

 

3 パブリック・フォーラムと非パブリック・フォーラム

  伝統的PF 非PF 指定されたPF
具体例 道路・広場・公園 駅構内 公会堂・音楽堂
審査基準 厳格審査 緩やかな審査* 厳格審査

*非パブリック・フォーラムでは,使用させるかは裁量であるが,使用させる場合は,『見解』による差別はしてはならない

 

 

4 規制と援助

(1) 『政府言論』という視点

表現の自由と政府との関係⇒従来,政府からの自由と政府による自由しか意識されず

*表現者としての政府に光をあてる考え方(この考え方の下では,Ⅰ政府自身による表現が私人の表現活動に対して与える影響,Ⅱ特定の表現活動に対して政府が助成・支援し,自らは表現者ではないが,黒子となって特定の表現活動をしているのと同様の効果をもたらすという問題―の2点が問題となる)

視点 一見表現の自由を促進するように見えて,資金の提供を通じて私人の表現活動に事実上の支配権を及ぼす危険性を有する

 

① 国家による特定思想の表現

国家が支持する表現を援助することは,違憲とすることが原則できない

∵① 政教分離原則はあるが,政治思想分離原則はない・・・

② 表現の自由の要請は,多数派の思想以外の表現も保障せよという点

③ 思想同士で競争し,選挙で公認思想になるのがデモクラシー

⇒ 政府は自己の思想の推認し公的資源を使うことができる!!

 

② 公認思想に適合する私人の表現活動を援助すること

国による援助は,援助を受ける者と受けない者との差別が問題となる。

政府は,芸術活動を援助する憲法上の義務はないが,援助をいったん決定した以上,観点中立的に行う必要!!

⇒ 非パブリック・フォーラムの応用[17]

  主題の規制 見解の規制
具体例 演劇に対する援助 市制批判の演劇に援助せず
審査 主題の選定は政府の裁量 厳格審査

*予算の関係からあらゆる芸術に援助はできない[18]ので,主題の選定は裁量

*見解と作品の評価が密接な場合⇒政府は第三者の評価機関設置の制度設計を考えるべき

 

 

 

 

Ⅱ集会・結社の自由

1 総説

① 集会の自由を保障する理由は

集会の自由を保障する理由は,ⅰ個人の人格の発展に不可欠だからであり,ⅱ集会・結社の自由は,政治力を表明する手段として不可欠だから

 

ⅰ自己実現の価値 ⅱ自己統治の価値
個々人は,様々な集会に参加することにより,自己のアイデンティティを確立する

⇒複数の集会に参加することにより,一つの団体により全人格を絡め取られることから免れ,自由空間を確保可能に!!

国民は,集会によって国民の力を結集して,政治過程に参加するから

⇒特に,一般大衆はマスメディアから排除されているので集会が持つ自己統治の価値は,無視できない重大性あり!!

*集会の自由がないと一つの団代に拘束され,結果自由を失う危険がある

 

2 集会の自由[19]

集会の自由は,ⅰ施設管理権,ⅱ公安条例,ⅲ破防法により規制される

(1) 施設管理権を通じての規制

① 施設管理に支障があるときの判断

市民会館条例には,「その他市民会館の管理運営上支障があると認めるとき」といった規定がある。『管理運営上支障』とは,原則的には,不許可理由は施設管理の観点に限定されるはず

しかし,ときに公共の安全が脅かされるといった警察的観点が混入する場合あり(現実に条例には,『公の秩序を乱し,善良な風俗を害するおそれがある』)といった規定がおかれている

⇒ 集会の警察的規定は,法律又は条例の根拠が必要であるが,実際にはあることが多い

② 『公の施設を利用する権利』

自治体の市民会館などの施設の利用は,地方自治法244条2項が利用の拒否には『正当な理由』を要求し,3項が差別的取扱いを禁止している。このことからすれば,市民は法律上,公の施設を利用する権利が与えられている

 

上尾市福祉会館事件判決(最判平成8年3月16日民集50巻3号549頁)

地方自治法244条に定める普通地方公共団体の公の施設として,本件会館のような集会の用に供する施設が設けられている場合,住民等は,その施設の設置目的に反しない限りその利用を原則的に認められることになり,管理者が正当な理由もないのにその利用を拒否するときは,憲法の保障する集会の自由の不当な制限につながるおそれがある。

したがって,集会の用に供される公の施設の管理者は,当該公の施設の種類に応じ,また,その規模,構造,設備等を勘案し,公の施設としての使命を十分達成せしめるよう適正にその管理権を行使すべきである。
以上のような観点からすると,本件条例6条1項1号は,『会館の管理上支障があると認められるとき』を本件会館の使用を許可しない事由として規定しているが,かかる規定は,会館の管理上支障が生ずるとの事態が,許可権者の主観により予測されるだけでなく,客観的な事実に照らして具体的に明らかに予測される場合に初めて,本件会館の使用を許可しないことができることを定めたものと解すべきである。

 

③ 敵意ある聴衆の法理

合法的な集会である場合は,これを妨害する行為の方を規制し,集会の自由を保護するのが正しい解決

 

④ 集団示威行進

集団示威行進は,スピーチプラスであるから,公安維持の観点及び道路施設管理の観点から規制を受ける。

道路施設管理の観点から,道交法77条の許可が一定の場合必要とされているが,ここには運用上,公安維持の観点が潜んでいることがあり注意

⇒ 公安的観点からの規制は,法律又は条例が必要!!

*実務上は道交法と公安条例の許可は『併合許可』となっている場合多い

(2) 公安条例による規制

① 公安条例の合憲性

一般的許可制は違憲となるが,許可制でも合理的かつ明確な基準を伴った裁量の幅の狭いものであれば許される(新潟県公安条例事件判決)

 

② 許可条件の明確性の有無

許可条件が明確といえるためには,通常の判断能力を有する一般人が,具体的場面において,具体的な行為がその構成要件の適用を受けるか判断できる必要ある

示威行進に際して遵守すべき事項として,『交通秩序を維持すること』と定められることが多いが,でも行進をすれば少なからず交通秩序は乱れる。そこで,許可条件が何を規制しているのかが不明確な場合多い

 

③ 道交法と公安条例との関係

『公安法』という法律はないので,公安条例は道交法の規制を超えることはできない

⇒ 道路交通法の規制を超える公安条例は法律違反にならないか

∴ ならない

∴ 道路交通法は,『交通秩序の維持を目的』とするのに対して,公安条例は,『地方公共団体の安寧と秩序の維持』を目的としているから

⇒目的が違い,道交法は公安条例を排斥する趣旨ではないと・・・

3 結社の自由

(1) 意義

結社の自由とは,結社をつくりそれに加入し,あるいは加入しない自由,及び結社を通じて活動する自由をいう

(2) 結社の自由をめぐる諸問題

(ア) 構成員の差別

誰と結社を形成するかは自由であり,私人間の関係であるから,結社のメンバー資格について差別を行ったとしても,原則として憲法問題は生じない。しかしながら,間接適用説を前提とすれば,結社の性格や事実上の影響力如何によっては,差別が公序に反し,あるいは,不法行為に当たることもあり得る。

(イ) 結社に関する調査

国家が結社のメンバー名を調査することは,そのメンバーを秘匿とすることも結社の自由の保障の範囲に含まれるから違憲となる

(ウ) 破防法による解散命令

(エ) 政党の規制

視点 政党は,憲法規定上は私的な結社としての地位しか認められていない。しかし,現代民主政治において政党が事実上公的制度としての地位・役割を果たしていることは誰もが認めるところ。そこで民主政治の良好な運営のために必要な規制は許されるか

 

 

 

 

a フィクションの問題(政党法の制定は許されるか)

選挙過程に参入し公的な側面を帯びた以降 選挙過程に参入する前の段階
 法律を制定されることも許されると解される  私的領域の活動にとどまっているので,通常の結社と同様の自由を享受する(法律による規制は原則的に許されない)

b ノンフィクションの問題(政党助成は結社の自由に反するか)

日本の場合,政党法という規律は存在しないから上記aで述べた問題は存在しない。現実にある公的側面の規制は,多くは政治過程で特別の資格・地位が認められるための条件として課されるにすぎない。そうすると,結社の自由に対する侵害が問題となるよりかは,上記の特別の資格・地位がある政党とない政党との間の不平等の問題が生じる。これは間接的に結社の自由が侵害されるという問題点がある[20]

(オ) 結社の内部紛争への司法的介入

視点 結社の自由は,結社内部の問題を自治的に処理する権利を含んでいるから,裁判所が内部紛争の解決を求められた場合には,結社の自由との関係で裁判所がどこまで介入しうるかが問題となる。

高橋説 ① 紛争を解決する内部のルールが存在し,それに従った決定が自主的になされている場合,ルールが結社の目的との合理的な関連性を有する限り,その決定を尊重すべき

 

共産党袴田事件(最判昭和63年12月20日判時1307号113頁)

1 政党は,内部的には通常自律的規範を有し党員に政治的忠誠を要求し,一定の統制を施す自治権能を有する。政党は,国民が政治的意思を国政に反映させるための有効な媒体であって,議会制民主主義を支える重要な存在といえる。このような政党の存在意義に照らすと,政党に対しては,高度の自主制と自律性を与えて自主的に組織運営をなしうる自由を保障する必要がある。他方,上記の政党の性質,目的からすると,自由な意思によって政党に加入した以上,党員が政党の存立及び組織の秩序維持のために,自己の権利や自由に一定の制約を受けることがある。以上に照らすと,政党の自主性の尊重という観点から,政党の内部的自律権に属する行為は,法律に特別の定めのない限り尊重すべきである。

そうすると,除名処分の当否は,原則として自律的な解決に委ね,一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り,裁判所の審判権は及ばない。他方,右処分が一般市民としての権利利益を侵害する場合であっても,除名処分の当否は,政党の自律的な規範に照らし,適正な手続によりなされたかという点に審理は限られる。
2 本件についてみると,共産党は政党に当たるということができる。建物明渡請求は,司法審査の対象になるが,他方,建物明渡訴訟の請求の原因としての除名処分は,政党の内部規律の問題としてその自治的措置に委ねられる。そうすると,その当否は,適正な手続を履践したかの観点から審理判断される必要がある。そして,共産党は,自律的規範として党規約を有し本件除名処分は規約に則ってされたものといえる。そうすると,除名処分の手続には,何らの違法もないから,共産党のしたYに対する除名処分は有効である。

 

 



[1] これは,19世紀にはなかった問題という位置づけが可能と思われる。つまり,20世紀に入り,メディアが表現者の地位を独占するようになると,メディアが好む情報のみを発信し続け,その結果,受領者が求める情報が受領できなくなっているという問題が生じたと理解できる。例えば,放送法の規定は,このような20世紀になって生じた問題について利益調整を試みるものと評価することができる。

[2] 表現の自由は,情報を流通させる自由一般を保障していると解される。表現は文言からすれば,情報発信を意味しているが,情報発信があっても情報の受領の自由がなければ,社会的意味を持たないからである。

[3] 表現の自由の規制については,対抗言論の法理が持ち出されることが多いが,対抗言論の法理は,私人間での利益調整は原則として対抗言論により行えば十分であり法律による利益調整を否定する法理であると位置付けることができる。もっとも,対抗言論が十分に成り立たない分野では,かえって法律による利益調整が望まれるという根拠として利用することも可能と思われる。

[4] なお,最判平成16年11月25日民集58巻8号2326頁(放送法4条の定める訂正放送請求事件)を参照。名誉毀損が成立すれば民法723条により謝罪放送を求めることができるが,それとは別に,放送法4条により訂正放送を請求する権利が認められるかという問題である。この点,もし認められれば法律によりアクセス権の一種が規定されたという意味を持つことになるが,判例はそれを否定したわけである。

[5] インターネットの表現の自由にもたらす影響について補足して意見を述べておきたい。表現の自由は,もともと精神的自由権の一つであり19世紀的な夜警国家の思想が妥当するといわれ,国家による介入は忌避されるのが通常の形態といえる。ただし,19世紀において国家が表現に介入しないとしても「思想の自由市場論」が成り立ったのは,19世紀の表現では匿名性がなく情報の発信には必然的に責任を伴うものであるから,節度ある表現がなされ有害情報の氾濫は必ずしも招かなかったという「神の見えざる手」が働いた可能性を否定することができない。これに対して,20世紀の時代に入ると,送り手と受け手の地位が分離・固定化することとなり,表現の自由を考えるに当たり,メディアが恣意的に選別した情報しか「思想の自由市場」に流通しなくなったといえる。そこで,国民の「知る権利」という観点から光を当てて考えることによって,「思想の自由市場」を活発に機能させるためには,どのような法政策を採るかが議論されたのが20世紀といえる。例えば,反論権やアクセス権の議論はこの分脈でとらえられるものといえる。

これに対して,21世紀に入るとインターネットの発達により20世紀にみられた受け手と送り手の地位の固定化という状況が解消される可能性が示されることになった。そうすると,21世紀においては,原則として,表現の自由をめぐる市民間の利益調整は,「対抗言論の法理」により処理すれば十分といえるようにも思える。そうだとすれば,国家の法政策としての表現の自由に対する介入は極度に制限されるという19世紀への回帰を予測することができるのである。表現の自由に関する多くの文献の主張は,この点を強調するものが多いように思われる。

しかしながら,21世紀と19世紀には異なる点があれば,19世紀の表現の自由の法理を直接,21世紀に持ち込むというわけにはいかないということになる。そこで考えてみると,先述のとおり,19世紀においては,情報の発信に必ずしも匿名性が認められておらず,しかも例えば,ビラ配りに代表されるように市民社会に対してその情報を伝播される能力は著しく低いといえた。これは,例えば,名誉毀損的表現やプライバシー侵害がなされるケースが,そもそも表現者が責任を問われかねないという状況の中で節度ある表現を期待でき,また仮に権利侵害がされてもその程度は伝播能力が低いことから小さいものにとどまったということができる(事後救済で足りる)。これを比喩的に例えて言うと,19世紀の時代には「神の見えざる手」が存在したということができる。これに対して,21世紀のインターネットメディアの場合は,その匿名性が高くともすれば無責任な情報の伝達を誘発し,名誉毀損・プライバシー・わいせつといった有害情報の氾濫をもたらした。これらの情報は,他者加害のおそれを含むものであるから,「公共の福祉」による利益調整に馴染む誠実のものといえる。また,インターネットはその伝播範囲が広いから,上記権利侵害の程度も必然的に大きいものになる(事後規制のみでは十分ではなく事前規制が求められる場合が増加する)。このような観点からみると,20世紀的な実態が21世紀に入り解消されたからといって,直ちにインターネットメディアを自由に放任すればよいという発想にはつながらなくなるものと思われる。そうすると,19世紀のような「神のみえざる手」が機能しない21世紀において,例えば,対抗言論による利益調整では不十分であるということは明らかと思われる(プライバシーの侵害に対してどのように対抗言論をするのか)。高橋説がいう「プリントメディアを基礎に形成されてきた従来の表現の自由論も抜本的な再検討を要請されるかもしれない」というのは,以上のような問題意識に基づいているものと解することができる。そうだとすれば,近時の下級審にみられるように,インターネットの場合,対抗言論が容易であるからその利益調整で足りるというように20世紀と21世紀の単純な比較(したがって,19世紀に先祖還りすればよい)という発想は,やや粗雑な検討といわざるを得ない面があるように思われる。この点,名誉毀損的表現や侮辱的表現を禁止する立法が可能かという議論があるが,この議論はまさに上記に述べた問題意識が潜むものと解することができるように思われる。この点については,私見は,表現の内容に着目して,政治的表現と非政治的表現を峻別して,前者についてはその萎縮的効果にかんがみ19世紀の表現の自由をなるべくそのまま妥当されることを旨として,他方後者については,表現内容に応じて一定程度の抽象化しカテゴライズすることにより,一定のカテゴリーについては事前抑制的な規制をすることも正当化されるという方向性を志向するものである。例えば,子どもの有害情報に関するフィルタリングソフトの義務付けといった法律が制定されたと仮定すると,有害情報が氾濫する中で子どもにネットを利用させること自体を忌避する風潮が親に広がれば,インターネットの無限の可能性を子どもが享受することができず,ひいては子どもの教育を受ける権利を侵害することにもなりかねない。このような点にかんがみると,インターネット上における有害表現をブロックする機能があるフィルタリングソフトの義務付けについては,事前抑制的意義があるとしても,上記の21世紀的な表現の自由の法理において規制が正当化されうる例ということもできると思われる。ただし,この場合,既存の法理がまったく応用されないものと解する余地はなく,規制目的の審査を19世紀はパスしなかったが,21世紀はパスするようになったということができる。そうすると,手段審査について,過大包摂となっていないかという点については,これまで以上の厳格さが求められる方向にシフトしていくという方向性をうかがうことができるといえよう。

[6] 松井茂記「『情報通信法』と表現の自由」法律時報996号74頁(日本評論社,2008年)は,情報通信法案は,今後のインターネット規制について,①映像配信をする場合(特別メディア・サービス),②利用者がサイトにアクセスして,映像をダウンロードする場合(一般メディア・サービス),③掲示板への書き込み(オープンメディアコンテンツ)と分類されているとする。そして,①は放送と同様の規制,②は一定の番組内容の編集の原則が適用される,③は最低限の配慮事項について,刑罰を伴わない形で整備するものとして,有害情報についてゾーニングの規制という規制の程度の強弱が示されている。松井教授は,上記のような規制に照らすと,特別メディア・サービスにあてはまるかが規制の程度が異なり重要という。①の規制について,インターネットについては,電波の希少性の根拠があてはまらないし,新聞と比較して影響力が大きいというわけでもない。そうすると,①のみならず,新聞を超えた規制といえる②についても憲法上の正当化はできない。このことは,刑罰を伴わなくても異なる点はないとする。

[7] 囚われの聴衆の法理は,自己が受け取りたくない表現を無理やり受け取らされることを防ぐことによって,『送り手』と『受け手』との間の対等性を確保しようとする法理と位置づけられる。すなわち,これは,送り手が受け手に対して受領を強制することができない憲法実体法上の根拠と位置付けることができると考えられる。そうすると,論理的には,送り手が受領を強制することができるかは,憲法上は,受け手が『囚われの聴衆』と評価することができるかによって判断されることと考えられる。

[8] 福岡高那覇支判平成7年10月26日は,「象徴的表現行為とは,通常の文字又は言語による表出方法に代えて,通常は表現としての意味を持たない行為によって自己の意思・感情等を表出することをいう。そして,象徴的表現として認められるためには,①行為者が表出する主観的意図を有し,②その表出を第三者(情報受領者)が表現としての意味を持つものと理解することを必要とする。そして,象徴的表現行為が処罰されるかどうかの限界は,当該処罰による規制の目的が自由な表現の抑圧に関係するもの(表現効果規制)か,それとも表現の抑圧に無関係なもの(非表現効果規制)かによって結論を異にする。表現効果規制の場合には,表現の内容の規制に関するいわゆる厳格な基準によって処罰の合憲性が判断される。それに対し,非表現効果規制の場合は,オブライエン・テスト(規制する側の利益と規制される側の不利益との利益較量)によって判断される。その際,ⅰ規制目的・対象が表現効果に向けられていないこと,ⅱ当該規制が重要であること,ⅲ当該規制が表現行為を不当に制約していないこと,ⅳ代替の表現手段があることなどが考慮される」とする。

[9] 第三者によるコミュニケーションの切断を認めてしまうと,『送り手』の表現の自由を侵害するばかりでなく,『受け手』の自律性を否定し,『受け手』にとって都合のよい言論のみを受け取る『囚われの聴衆』の地位に置くことになるとする点が問題といえる(阪口正二郎「防衛庁宿舎へのポスティング目的での立入り行為と表現の自由」法教336号12頁参照)。

[10] 世界的に著名な写真家メイプルソープの題材が参考になる。彼は,「裸体」や「性器」を題材とする写真を数多く残している。最判平成11年2月23日は,性器そのものの描写に重点が置かれている写真が含まれているとして,関税定率法21条1項4号で規定する輸入禁制品である「風俗を害すべき図画」に該当するとの判断を示していた。これに対して,最判平成20年2月19日は,別の構成のメイプルソープの写真集について,輸入規制品にあたるとの判断を違法とする判断を示した。判例は,平成11年判決に言及し,本件写真とは構成が異なるカタログを対象とするものであるし,対象となる処分がなされた時点も異なると説明している。

[11] 渋谷説は,性表現の根拠は,青少年のアクセス規制と消極的知る権利(見たくない自由)とすれば,性表現の全面的禁止の根拠はなく,表現の方法規制のみしか許されない,とするが,これも一つの視点と思われる。

[12] 渋谷説は,営利的言論の特性から独自の審査基準を設定すべきとして,①人を誤解させる表現であるか,②規制により得られる利益は,実質的(中身を伴っている)か,③規制によりその利益を直接促進するものであるか,④その利益を達成するのに必要以上に広範ではないこと―という基準を挙げている。これは,中間審査の一つであり,ベースラインの具体化として参考になると思われる。

[13] 『思想の表明の自由』が求められるのは,それが正しいか否かの区別ができないからであるのに対して,事実の表明については,その事実の真偽を一応観念することができる。そうすると,健康に有害な医薬品の販売広告が誇大広告であるとすれば,その広告は,そもそも憲法的保護はないという処理もあり得る。

[14] ヘイト・スピーチの問題もアクセス権についての議論と基本的に平仄を一にしており,結局は,私人間の利益調整の問題と位置付けることが可能である。私人間の利益調整で重要な視点は,対抗言論による調整で十分かという点にある。渋谷説はこれを肯定している(差別的言論の認定権を政府に委ねるとその恣意的な適用が懸念される。また,特定人が対象ではないので,被侵害利益が具体的ではない。このことに照らすと,規制の目的の重要性を肯定しにくいと思われる。とすれば,思想の自由市場に委ねることで利益調整は十分(=LRAがある)という判断になろう。

[15] 匿名性の保障が憲法21条で保障されるかが問題となる。この点,政府にとって好ましくない表現をする者は素性を明らかにすると,経済的報復や敵意ある聴衆からの嫌がらせを受け,表現をすること自体に強い萎縮的効果をもたらす。したがって,「匿名で表現をする自由」も憲法21条で保障されているものと解する。この点,国家が氏名・住所を表示させることについては,LRAの基準によるのが適当と考える。また,住所まで表示させないと目的を達成することができないかについても慎重に検討する必要があると解する。

[16] (1) 本件において問題とされるのは,「Xのした表現行為に刑法130条を適用して処罰するという国家行為」の憲法適合性の問題と考えられる。ただ,この点少し混乱が見られるのは,①管理権者である防衛庁も含めて国家行為を判断するべきか,②被害者である防衛庁を除いて裁判所が法令を適用し処罰する行為を中心に判断するべきかという点である。

(2) 当然であるが,後者の方が合憲となりやすくなるし,判例も私人同士の事案ではこのような法理に依拠しているのではないかと考えられる。この点について,アメリカのステート・アクション法理を考慮に入れると,国家行為をどこまで拡張することができるかという視点から考えていくのが相当と考える。そうすると,裁判所の判断に付け加えて,防衛庁の行為まで連続的にとらえることができるのであれば,防衛庁の意図・目的についても考慮して判断するのが相当と考えられる。これに対して,葛飾区のマンションビラ事件のように,市民のマンションの場合は,市民が共産党のビラを嫌悪したという意図・目的があっても,住居侵入行為を処罰するにあたって,裁判所の処罰行為に憲法を適用するについて,この点まで考慮するのは行き過ぎではないかとも考えられる。

(3) そこで,以下では,防衛庁の意図・目的も考慮に入れられるという前提に立って検討を進める。まず,本件処罰の合憲性を判定する基準が問題となるが,合憲性判定基準とその審査密度の問題は分けて考えるのが相当である。そして,およそ人権というのは,個人がかけがえのない個人として生き抜くために必要不可欠とされ類型・実定化されたものであるから,その目的と手段との間に実質的な関連性があることがベースラインとなるというべきである。そして,審査密度の問題については,本件が表現の自由の問題であること,一見,内容中立規制とみられることを考慮すれば,審査密度をやや緩める形で判断するのが相当と考える。

本件処罰の目的は,刑法130条の保護法益である住居権者の住居権の保障ないし住居の平穏の維持にあると考えられる。具体的には,防衛庁の官舎に対する管理権を侵害し,そこに居住する自衛隊員ないしその家族の居住の平穏の実現にあると解される。これらの目的が重要であるということについては他言を要しないように思われる。では,目的と処罰という手段との間に実質的な関連性があるかについて検討に移る。この点について,Xがビラを配布した場合において立川宿舎の住民からビラを入れないように注意をされたときに,Xはそのビラを回収して退去しているから,管理権を侵害する態様ないし住居の平穏を害する可能性はほとんど存しない態様といえる。また,Xに対して注意を行った自衛隊員であるPは,「共産党のビラであるからダメなんだ」と発言しているし,しかも,立川宿舎の集合ポストや各戸の郵便受けには,商業的宣伝ビラが投函されており,また,宗教への勧誘目的での各戸の訪問もなされている。このことからすれば,管理権者は,管理権の侵害ないし住居の平穏の害する程度という観点から問題視しているのではなく,特定のビラを排除する意思と推認せざるを得ない。

以上からすれば,上記のように目的を設定する限り,Xを処罰しても防衛庁の管理権ないし住居の平穏が確保されるという関係にないから実質的な関連性を欠くといわざるを得ない。

(4) かえって,本件の場合,国家権力である防衛庁がそのビラの内容を問題視し,自己にとり不快なメッセージであること及びその家族へ及ぼす影響を懸念して,そのメッセージの排除を狙ったものと考えられる。このように,特定の言論の締め出しを目的とし政府に都合の悪いメッセージを弾圧することは,憲法の禁止するところであるから,それを例外的に認めるということであれば,極めて強い正当化要素が必要と言わなくてはならないから,その審査密度を極めて厳格に解すべきと考える。そこで,表現内容に着目している以上,目的がやむにやまれぬ政府利益の確保を目的としており,目的を達成するための手段が必要不可欠であることが必要と解される。

これを本件についてみると,防衛庁はイラクに対して自衛隊を派遣している際中であるから,不安ないしナーバスになっていると考えられる家族の感情に配慮する趣旨に出たものと考えられる。したがって,裁判所が処罰をするについても,このような家族感情の配慮が目的となる。たしかに,このような目的による権利制約も一定の正当性が認められることは認められる。しかしながら,家族が不安ないしナーバスになっておりその心情に配慮するためとはいえ,かかるビラを閲覧したからといって,具体的にどのような弊害ないし危険が生じるのかが明らかではない。もとより,イラクに対する自衛隊の派遣がいわゆる論争的主題とされており,思想の自由市場において自由闊達な議論が期待されるところである。しかるに,仮に本件のような規制を認めるということになると,自衛隊員の家族は,『家族の心情に配慮』という美名の下に,防衛庁が許可する言論にしか接することができなくなる可能性すらある。これは,自衛隊員ないし自衛隊員の家族を囚われの聴衆に陥れるものといわなくてはならない。この点,自衛隊員やその家族は,自ら能動的に情報を受領することが可能であるから,自律性が侵害されているわけではなく,したがって,囚われの聴衆には当たらないという反論も考えられる。しかしながら,例えば,能動的に情報収集をするツールとして有用なインターネットであっても,自ら明確にターゲットを定めた情報は提供してくれるが,街の本屋にぶらりと出かけて偶然にも面白い本を見つけたり,また,新聞に必ずしも自己の興味とは無関係に目を通すのは,自分がもともと関心を有する情報に接するためではなく,思いがけない出会いを期待しているからである。このような諸点を考慮すると,家族感情の配慮という目的は正当であることは間違いないが,やむにやまれぬ政府利益の確保を目的としているというには到底足りるものではないと解するのが相当である。そして,目的と手段との関連性との関係では,本件処罰が家族の感情の配慮に資することは疑いがないが,刑罰という峻烈な刑罰を正当化するには足りず,結局,実質的な関連性も否定すべきものと考えられる。

(5) 以上の次第であるから,本件Xのビラ配布行為について裁判所が刑法130条を適用するのは憲法21条に反するというべきである。

[17] 例えば,パブリック・フォーラム(公園・道路・公会堂)の管理,学問・芸術への助成,図書館の建設・維持などもこのような分脈でとらえることができる。これらをどのように提供するかについては,原則的には広い立法裁量に属するが,提供を決めたものについては,その内容に関して憲法から来る一定の枠が存在することが重要である。特に,内容中立的な運用が強く求められる。また,各事業の運営方法は法律及びその委任法令により定められるが,ここでしばしば生じるのが,これらの規定は国民に具体的な請求権を与えているか,それとも単に管理運営規則を定めるのみで,それにより国民の受ける利益は「反射的利益」にすぎないかが問題となる(芦部167)。なお,図書館の規則は利用者に具体的な権利を与えたものではなくても,公立図書館とその所蔵図書は,「公の施設」として地方自治法244条により住民には図書利用権がある。

[18] 例えば,図書館は国民が様々な情報にアクセスをするための重要な施設である。したがって,特定の偏向に偏った図書収集は許されない。もっとも,予算と収蔵スペースに限界があるから取捨選択は不回避であり,内容中立的な収集方針が望ましいとしても,図書館に収めるのにふさわしいかどうかの判断は内容と無関係には行い得ない。したがって,図書購入に関しては,管理者の広い裁量に委ねざるを得ない。しかしながら,購入した図書の管理については,裁量の幅は狭くなる。例えば,特定の図書を非公開にしたり廃棄したりする場合は,図書の提供というよりも,自由な利用(表現を受け取る自由)の妨害という性格が強くなるから,明確な規則に従って行われならないと考えられる。このような視点から,厳格な審査に服すると解すべきとする見解がある(芦部168)

[19] 最判平成19年9月18日[暴走族追放条例合憲事件]も参照。広島市の管理する公共広場において特攻服を着用して顔面を覆った暴走族の集団が円陣を組んで旗を立てて集会を行ったところ,広島市暴走族追放条例違反として広島市から集会中止及び退去の命令を受けたにもかかわらず,これに従わず集会を継続したことから条例違反で起訴されたものである。本件条例は,明確性の原則に反しないかが争点となっており,「公衆に不安又は恐怖を覚えさせるような威集又は集会を行うこと」を禁止している。また,「特異な服装をし,顔面・・を覆い隠し・・威勢を示すことにより行われた」場合には,退去命令が出せるというものであり,その内容に照らすと政治的表現も含まれかねないような規定ぶりとなっている。本条例は,表現行為を規制する一方で,規制利益が表現の受け手が抱く主観的で漠然とした不安感の保護のみという点については,慎重に検討することが必要である。

[20] 例えば,政党助成の問題がある。たしかに,政党助成は政党に対して国家が助成を与えるものであるから,結社の自由を制約するどころか促進する意味があるといえる。しかしながら,政党助成を受けるためには,一定の条件を満たす必要がある。また,助成を受けられない政党は,個人献金が発達していない日本では,活動が困難となる。そうすると,政党助成は,助成を受ける政党の結社の自由を促進する意味があるが,他方,助成を受けられない政党の活動を間接的に阻害する効果があるといえるのである。もっとも,これは結社の自由に対する制約というよりかは,平等原則の問題のように思われる。最大判平成19年6月13日民集61巻4号1617頁の泉徳治裁判官の反対意見が参考になると思われるので以下に掲げる。「公職選挙法は,既成政党に所属しない者が新たに政治団体を結成しても,その政治団体には選挙運動を行うことを認めないのであるから,選挙制度を政策本位,政党本位のものとするとの立法目的を掲げながら,実際に作られたのは,既成政党の政策本位,既成政党本位の選挙制度である。
公職選挙法が,過去の選挙の結果のみを基準に,既成政党に限って,候補者個人とは別個に選挙運動を行うことを認めることは,選挙のスタートラインから既成政党を優位に立たせ,本人届出候補者を極めて不利な条件の下で競争させるもので,議会制民主主義の原理に反し,国民の知る権利と選挙権の適切な行使を妨げるものとして,憲法に違反するといわざるを得ない。
また,公職選挙法は,政党届出候補者のために行うことのできる選挙運動と本人届出候補者のために行うことのできる選挙運動との間に,質量ともに大きな差別を設けている。中でも,新聞広告及び政見放送における差別は,国の費用負担で行われる公的給付における差別という性質を有し,政見放送に至っては,候補者届出政党にのみ認め,本人届出候補者には禁止するという質的な差別である。新聞広告並びにテレビジョン放送及びラジオ放送は,今日,選挙運動の手段として極めて重要な地位を占めており,選挙人にとっても候補者に関する情報を得るための主要な手段となっていることを考えると,この点に関する差別は軽視することの許されない問題である。
選挙運動について,上記のような大きな差別を設けなければ,政党本位,政策本位の選挙という目的が達成できないとは認め難く,公職選挙法が政党届出候補者と本人届出候補者との間に設けた差別は,前記の立法目的の達成のため是非とも必要な最小限度のものということはできず,選挙人の候補者に関する情報の取得と,候補者に関する均等な情報に基づく適切な選挙権の行使を過度に妨げるものであり,議会制民主主義の原理に反し,国民の知る権利と選挙権の適切な行使を妨げるものとして,憲法に違反するものといわざるを得ない」。

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