憲法
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第9章 経済活動の自由
Ⅰ 総説
1 経済活動の自由の意義
視点 国家による介入の過剰が逆に問題視されるようになってきている。国家の過剰な介入は,経済の活力を奪うのみならず,人々を過度に国家に依存させ,個人の人格的生を生きる基盤を空洞化される
2 経済的自由権を保障する理由
経済活動の自由が人権として必要とされるのは,経済活動の自由が保障された体制が,自律的生の可能性を最もよく保障してくれるから(自らの力で経済的に自立してこそ,自律的生は可能となり,精神的自由権も経済的自由と切り離しては実現不可能)
高橋説 高橋説は,精神的自由権と経済的自由権は切り離せないというが,これは精神的活動の物的基礎が保障されなくなる点(表現するためのビラ配布には,まず紙を買う必要がある)を重視するのではなく,両者が個人の自律という「心構え」において,相互に依存し不可分に結合していることを理由に挙げていることが注目される
3 経済的自由権の種類と営業の自由
① 居住・移転の自由
② 職業選択の自由
③ 財産権の保障
* ①②は,今日では,自己決定権的な性格を強めており,ケースに応じて経済的自由として扱うか,自己決定権として扱うかの判断が必要
④ 営業の自由
Ⅱ 居住・移転の自由
Ⅲ 外国移住・国籍離脱の自由
Ⅳ 職業選択の自由
1 意義
① 営利を目的とする場合,経済活動の自由としての性格が強まる
② 営利を目的としない場合,自己の生き方としての性格が強まる(精神的自由)
2 判例理論
(1) 規制目的二分論
(ア) 消極目的規制
a 定義
消極目的規制とは,自由にすれば国民の健康や安全に危険が生じるという場合にその弊害を除去,防止するための規制をいう
b 審査基準
(a) 目的審査は,立法の目的が必要かつ合理的であること
(b) 手段審査は,規制手段が立法目的との関連で「より制限的でないもの」
(イ) 積極目的規制
a 定義
積極目的規制とは,福祉国家の理念の下に,弱者保護のため,あるいは,社会経済の均衡のとれた調和的発展のために行われる規制をいう
b 審査基準
目的・手段ともに立法府の広範な裁量が認められるから,「その裁量を逸脱し,当該
法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合」にのみ違憲
(2) 小売市場事件判決(最大判昭和47年11月22日刑集26巻9号586頁)
1 個人の自由な経済活動による弊害が公共の福祉から看過できない場合,消極的にこのような弊害を除去することは,必要かつ合理的な目的に基づく限り許される。また,憲法は,福祉国家的理想のもと,国民に生存権を保障し経済的劣位にある者に対する適切な保護政策を要請する。そうすると,憲法は,国の責務として積極的な社会経済政策の実施を予定している。そうだとすれば,個人の経済活動の自由に関する限り社会経済政策の手段として,一定の合理的規制措置を講ずることは予定されている。 国は,積極的に社会経済全体の均衡のとれた調和的発展を図るために,立法により,個人の経済活動に対し一定の規制措置を講ずることも目的達成のために必要かつ合理的な目的である限り許される。もっとも,個人の経済活動に対する法的規制は,規制の対象,手段,態様等においても,自ら一定の限界が存する(これがベースラインという言い方?)。
2 しかしながら,社会経済の分野で法的規制措置を講ずる必要があるかは,立法政策の問題であるから立法府の裁量的判断に待つ必要がある。これは,規制をするには,社会的実態についての正確な資料が必要であるし,また,相互に関連する諸条件についての適正な評価と判断が必要だからである。このような評価と判断の機能は,まさに立法府の使命といえる。したがって,個人の経済活動に対する法的規制措置は,裁判所は立法府の裁量的判断を尊重するのを建前とし,ただ,立法府がその裁量権を逸脱し,当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限りこれを違憲として,その効力を否定することができる。
3 本件許可規制は,経済的基盤の弱い小売商の事業活動の機会を確保し,小売商の正常な秩序を阻害する要因を除去する必要があるとの判断のもとに,その一つの方策として,小売市場の乱設による過当競争の共倒れから保護するためにとられた措置である。かかる目的は,一般消費者の利益を犠牲にして,小売商に対し積極的に流通市場における独占的利益を付与するものではない。また,本法の手段としての許可規制も,過当競争による弊害が特に顕著と認められる場合にのみ規制する趣旨である。これらの点に照らすと,本法所定の小売市場の許可規制は中小企業保護政策の一方策としてとった措置といえる。この目的において,一応の合理性を認めることができる。また,その規制の手段・態様においても,それが著しく不合理であることが明白であるとは認められない。(3) 薬局距離制限違憲判決(最大昭和50年4月30日民集29巻4号572頁)
1 本件の規制目的は,不良医薬品の供給から国民の健康と安全を守る点にある。これは,医薬品が国民の生命・健康の維持にとって必需品である。そうすると,不良医薬品の供給から国民の健康と安全とを守るという立法目的の下で,供給業者を一定の資格要件を設定し許可制を採用することは,公共の福祉に適合する目的のための必要かつ合理的措置といえる。 2 もっとも,上記目的と規制手段としての適正配置規制との間に関連性は認められるか。薬事法6条2項の設置場所の配置の適正は,不良医薬品の供給という目的とは,直接の関連性がないため問題となる。
(1) 薬事法6条2項の立法目的は,一部地域における薬局等の乱設による過当競争のために経営不安定を生じその結果不良医薬品の供給の危険が生じるのを防止する点にある。この適正配置規制は,警察的目的のための規制措置といえるところ,薬事法6条2項は,薬局の過当競争及び経営不安定化防止は,あくまで不良医薬品の供給防止のための手段にすぎない。不良医薬品の供給防止という目的は公共の福祉に合致し重要な公共の利益といえる。したがって,薬事法6条2項は,適正配置規制という手段が不良医薬品の供給防止という目的達成のために必要かつ合理的であり,薬局の業務執行に対する規制ではかかる目的を達することができないと評価することができれば,憲法22条1項に反しないと解される。
(2) 不良医薬品の供給防止という目的のため,薬事法は品質の保障について種々の規制を置いている。また,薬剤師法は,調剤についての遵守規定を置いている。そうすると,刑罰・行政上の制裁と行政の監督によって,不良医薬品の供給の危険の防止という警察目的を十分に達成できる。予防的な措置として,精神的自由権としての側面を有する職業の自由に対する大きな制約を加えるためには,単に,観念上の想定として「国民の保護のために必要がないとはいえない」というものでは足りず,「このような制限を施さなければ右措置による職業の自由の制約と均衡を失しない程度において国民の保健に対する危険を生じさせるおそれのあることが,合理的に認められること」を必要と考えられる。
ア Yは,経営上の不安定は,良質な医薬品の供給を妨げる危険を生じさせると主張している。この点について,観念上はそのような可能性は否定できないが,実際上どの程度危険があるかは明らかではない。そもそも,大都市における医薬品の乱売は,主にスーパーの低価格販売を契機として生じたものであるし,医薬品の乱売は過剰生産と販売合戦に原因がある。そうすると,不良医薬品の販売の現象を直ちに薬局の経営不安定と直結させるのは合理的とはいえない。しかるに,競争の激化―経営の不安定―法規違反という因果関係に立つ不良医薬品の供給の危険が,薬局の販売の段階において,相当程度の規模で発生する可能性があると評価するのは,単なる観念上の想定にすぎず,確実な根拠に基づく合理的な判断とはいえない。
イ また,薬局に対する行政上の監督体制の強化という手段によって有効に不良医薬品の供給を防止することできるのではないかという問題がある。Yは,薬事監視員の増加には限度があり,監視を徹底することは困難であると主張している。この点について,例えば,薬局等の偏在によって競争が激化している一部地域に限って重点的に監視を強化することによってその実効性を高める方途もある。また,医薬品の貯蔵の不備は,不時の立入検査によって比較的容易に発見できる性質のものといえる。さらに,医薬品の製造番号の抹消操作等による不正販売は,薬局による小売以前の加工の段階で生じていると疑われる。そうすると,供給業務に対する規制や監督の励行によって防止できない薬局の経営不安定に由来する不良医薬品の供給の危険が相当程度存在すると評価するのは,合理性を欠く。ウ Yは,医薬品の乱売によって一般消費者による不必要な医薬品の使用が助長されるおそれがあると主張する。この点について,医薬品の乱売・乱用の原因は,医薬品の過剰生産と販売合戦にあり,一般消費者に対する小売販売の段階における競争激化は従たる原因にすぎない。特に小売段階における競争激化に基づく乱用助長の危険は比較的軽少にすぎないと評価するのが合理的といえる。かかる弊害の対策は,薬事法66条による誇大広告の規制のほか,一般消費者に対する啓蒙の強化の方法も存在する。しかるに,薬局の設置場所の地域的制限によって対処することは合理性を認めがたい。薬局等の設置場所の地域的制限の必要性と合理性を裏づける理由として,Yの指摘する薬局等の偏在―競争激化―一部薬局等の経営の不安定―不良医薬品の供給の危険又は医薬品乱用の助長の弊害という事由は,手段としての必要性と合理性を肯定できない。
エ Yは,医薬品の供給の適正化のためには薬局の適正分布が必要であり,一部地域への偏在を防止すれば,間接的に無薬局地域又は過少薬局地域への進出が促進されて,分布の適正化を助長すると主張する。この点について,無薬局地域への進出が促進されるという効果は,どこまで期待できるか疑問で実効性に乏しく,無薬局地域又は過少薬局地域における医薬品供給の確保のためには他にもその方策があると考えられる。そうだとすれば,無薬局地域の解消を促進する目的のために地域的制限のような精神的自由の側面を有する職業の自由の制限措置をとることは,目的と手段の均衡を著しく失するものと評価すべきであるから,その合理性を認めることはできない。
(3) 以上のとおり,本件適正配置規制は,全体としてその手段としての必要性と合理性を肯定するにはなお遠いものがある。したがって,この点に関する立法府の判断は,その合理的裁量の範囲を超えるものと評価するのが相当である。3 学説の対応
(1) 規制目的二分論に対する批判
① 問題の規制が消極目的か積極目的かは容易に決められないことが多いのであり,その結果,合憲としたい場合には緩やかな審査基準が適用される積極目的規制として説明するというように,望む結果に合わせて規制目的が恣意的に選択されている
② 積極目的の場合,審査の厳格度が緩和される理由が必ずしも明らかではない。
積極目的といっても,弱者保護のための介入もあれば,経済・財政政策の観点からの介入もある。特に,弱小商工業者の過当競争による共倒れの防止と称してなされる競争制限的な介入によって失われることになる利益,具体的には,参入することができなくなる者の職業選択の自由や消費者の利益に着目して審査基準が設定されていないという点は問題といえる。したがって,積極目的であるから緩やかな審査をするべきであるというのは妥当性を欠くものといえる。
③ 規制される自由の側からすれば,重要なのは「自由が制限される」という点である。
自由を制限される側からすれば,規制目的が積極目的か消極目的かは重要ではない。
むしろ,規制される側からすれば,積極目的の方が納得しがたく厳格な審査をすべきということにもなる[1]。
4 判例の展開
規制目的二分論は,整合的に説明できない判例が現われ,妥当範囲が曖昧となっている[2][3]
5 「通常審査」とその緩和理由の究明
(1) 基本的な態度
基本 ベースラインとしての厳格審査
例外 審査基準の厳格度を緩和しうる場合を個別的に検討[4]
(2) 審査基準の緩和ができる場合(明白性の原則)
ア 職業選択の自由と比較して職業遂行の自由の場合
イ 弱者保護のために強者が自己を規制する場合
* 弱者保護が真の目的かは,弱者の存在と窮状を裏づける立法事実の確認が必要
ウ 租税制度の観点からの規制
∵ 憲法が納税義務を規定するから,租税制度が公平かつ合理的である限りは裁量
エ 裁判所が審査能力を著しく欠くと認められ,民主プロセスに委ねる方が適切
Ⅴ 財産権の保障
1 財産権保障の意義
(1) 定義
財産権とは,自己に帰属する財産を自由に利用し処分する権利をいう
(2) 29条1項の制度趣旨
29条1項は,財産権を保障するとともに,財産権が成立する前提としての私有財産制度も保障している
∵ 20世紀に入って財産権は,絶対的に保障されるというわけではないことは争いがないといえる。そして,自然権思想の衰退により財産の帰属のルールについては,国家の立法政策の問題と理解されるように。もっとも,財産の帰属のルールが完全に立法政策の問題とされてしまうと,憲法で財産権を保障する意味はなくなってしまう。
そこで,財産権の帰属のルールのうち,私有財産制度のみは憲法が前提としているというルールということで,この点の廃止は,憲法29条1項に照らし許されない
2 保障の内容と制限
(1) 公共の福祉による制限(憲法29条2項)
立法府の裁量には限界あり
∵ ① 1項で宣言した財産権補償を無意味にするようなものはダメ
② 公共の福祉に適合する内容であること(積極か消極か)
(2) 保障の理由[5]
① 財産権が個人の自律を支えるから
② 他の人権を行使するのに必要な物的基礎となる機能
(3) 独占財産と生存財産の区別
ア 「大きな財産」と「小さな財産」の区別
「大きな財産」とは,他者の労働を搾取する機能を果たす財産をいう
「小さな財産」とは,自己の労働により自己あるいは家族の生存を支えるのに必要な財産をいう
イ 両者の区別の使い方
保障の程度を検討する場合において,審査基準の定立にあたり考慮する。当然,「大きな財産」については,全体のシステムが私有財産制を基軸とするとなお評価できるか(緩やか)による。他方,「小さな財産」は,ベースラインの通常審査。
3 審査基準
(1) 基本的な考え方
基本 ベースラインの通常審査
例外 基準を緩和しうる場合の理由・論理を解明していくアプローチを採るべき
(2) 森林法違憲事件判決(最大判昭和62年4月22日民集41巻3号408頁)
目的審査 「公共の福祉に合致する」ものであるか
手段審査 薬事法事件判決を引用しつつ,「目的を達成するための手段として必要性若しくは合理性に欠けていることが明らか」
(3) 高橋説の考え方[6]
消極・積極二分論の機械的適用を離れて,通常審査から出発するアプローチをとれば,説明は困難ではない。先述のとおり,経済的自由権の領域においては,ベースラインを弱める理由として挙げられるのは,①内容規制ではなく,行使態様の規制にとどまる場合,②強者の自己規制(強者が弱者を搾取するという関係がないから緩やかでよい),③租税制度の観点からの規制,④裁判所が審査能力を著しく欠く場合―の4点が挙げられた。
たしかに,本件の共有林の分割制限は,持分価格の過半数がない場合は分割請求ができないから,所有権の行使が全面的に行使できず内容規制に近い性格を有すると評価できる。また,森林法の立法目的は,社会全体の経済的効率性を高めるという功利主義的なものにすぎないから,強者による自己規制にもあたらない。また,租税制度の観点からの規制にもあたらない。さらに,功利主義的な規制から人権を守るのは,裁判所に期待される役割といえるし,規制目的を達成する手段との関連性を評価は,裁判所の能力が欠けるというわけでもない。
4 公用収用と正当補償
(1) 「公共のために用いる」
「公共のために用いる」とは,すべての個人がひとしく尊重される社会を実現するために必要として正当化されうる場合でなければならないことをいう
(2) 正当補償
(ア) 特別犠牲
a 何が「特別の犠牲」であるか
典型例 収用
b 財産権の行使を制限する規制は,「特別の犠牲」にあたるか
視点 消極目的の場合 ⇒ 当然受忍すべき
積極目的の場合 ⇒ 特別の犠牲になることが多い?[7]
(イ) 正当補償
正当な補償の額は,特別な犠牲に見合う額といえる[8]
(3) 予防接種事故補償判決
高橋説 「全体の利益のために特別の犠牲を強制されない権利」,すなわち,特別の犠牲に対する補償を請求する権利は,憲法13条を根拠とする新しい人権として認められる
∵ 命や健康を「収用」するという考え方には違和感があり憲法29条には戸惑い
[1] 規制目的二分論が妥当ではないのは,規制目的は「権力側の都合」にすぎないのであり,規制される人権の性質や制約の程度はもちろん,その規制目的がどれくらい緊急性の高いものかを考慮しないで審査基準を設定するという点にある。そもそも,審査基準論は,規制される人権の性格や重要性と制約の目的の重要性と方法の適切性の間の比較衡量をするためのツールである。ところが,規制目的二分論は,規制により得られる利益の性質・重要度はもちろん,規制により失われることになる権利の性質・重要度にも着目しないで審査基準の厳格さを決定しているという点に疑問がある。
[2] 酒税法事件(最判平成4年12月15日民集46巻9号2829頁)の調査官解説は,薬事法事件判決について,単純な二分論により判断したとみるのは妥当ではないと指摘している。そのうえで,規制目的に着目するのではなく,当該規制立法がどこまで立法事実に踏み込んだ司法判断がされるべき分野にあるのか,すなわち,立法府のする「規制措置の必要性と合理性」の判断についての立法府の合理的裁量をどの程度尊重するべき分野なのかという視点から審査密度を決めるべきとする。調査官解説の理解は,基本的には二分論に対する疑問と同じ疑問を抱いているものと評価できる。二分論は「積極目的か,消極目的か」という議論を立てているが,これは結果論にすぎないものということができる。つまり,審査基準は立法裁量の広狭に比例するものといえるから,立法裁量が広い場合が「積極目的」,狭い場合が「消極目的」といえる。そうすると,「なぜ立法裁量が広いといえるのか」という理由こそが探究される必要があるのであって,結論である「積極目的か消極目的か」という点を議論しても意味がないといえる。そして,立法裁量の広狭を判断する重要な基準は,①裁判所の審査能力,②現実的な弊害の除去・予防を目的とするか,未来志向的な性格(目的と手段の適合関係も推量的なものとならざるを得ない)の強いものであるか―という点に,規制される人権の性質・制約される程度を加味して決定されるものと考えられる。このように考えると,薬事法事件判決は,不良医薬品の供給防止という現実的な弊害の除去・予防を目的とするものであるから,目的と手段の適合関係も推量的なものではなく,社会的実態に照らして「目的―手段審査」をパスするかを判断すればよく裁判所の審査能力には問題はない。また,職業選択の自由は,精神的自由権の側面を有するからその権利の性質は重大であり,その制約の程度も許可制を採用しその他の場所に土地を有しない者である場合,薬局の開設を事実上断念しなければならなくなる。これに照らすと,決して制約の程度は小さいとはいえない。以上に照らすと,立法府に認められた合理的裁量の範囲は狭いと判断することができる。したがって,その審査基準は厳格に行うべきであり,立法目的が公共の福祉のために中身を伴って重要であり,その目的と手段との間に事実上の実質的関連性があることが必要と解するのが相当である。薬事法判決は,厳格な合理性の基準を採用するものかは判文からは明らかではないが,あてはめが濃密であることに照らすと,実質的関連性と同程度の厳密審査をしていると評価することもできると解する。
[3] 最大判平成14年2月13日民集56巻2号331頁は,規制目的二分論に対する消極的な態度を推測させる見解を表明している。すなわち,森林法事件判決と同じような説示を行いながら,「積極的」,「消極的」というワーディングを落としている。森林法事件判決では,規制目的の違いも比較衡量の一つの要素にすぎないという位置付けが与えられたに過ぎない。芦部222は,「規制目的二分論は放棄されたと断定するのは早いかもしれないがその射程は相当限定されてきていることは間違いなさそうである」としている。
[4] 高橋説は,積極目的か消極目的かで分類するのではなく,その理由に着目して個別に類型化していく方がよいというアプローチを採っている。これは,ブラック・ボックスといえる「積極目的」の中身を具体的に明らかにする試みと評価することができるように思われる。
[5] 高橋説は,「人権そのもの」には価値の序列はないとして,表現の自由などより価値の低い権利ではない,とする。
[6] 高橋説による検討を見てみると,通説の思考が機械的にすぎるということが分かるであろう。すなわち,森林法事件判決の事案は,少なくとも社会に発生する害悪の予防・鎮圧といった類の規制ではないから消極目的にはあたらない。かといって,弱者規制ではないから積極目的といえるかも微妙である。そして,通説のように,「AかBかどっちだ」という二項対立的な発想を貫こうとすると,本件事案も無理矢理,積極か消極かとにカテゴライズする必要に迫られる。そうしてみると,やはり,森林の細分化による効率の低下というのは,19世紀の夜警国家がするような規制であるとはいい難い。そうすると,積極目的に分類するのが普通ということになると思われる。しかしながら,森林法事件が興味深いのは,「全体の効用のため(誰かの人権との調整を図るという「公共の福祉」ではない)に個人の権利を犠牲にする」という人権論の典型的な適用の場面ということである。そうすると,積極目的であるから,緩やかな審査基準で足りるとするのは,人権論に照らして考えてみると明らかに誤りである。そこで,本件のようなケースでは,審査基準は少なくとも厳格な合理性が求められると考えるのが妥当というわけである。これをどのような説明によるかは,様々であるが,興味を魅かれるのは,同じ芦部門下の高橋説は,「ベースラインの通常審査で緩和すべき場合にあたらない」と説明し,浦部説は「積極とは弱者保護目的のみをいうから消極目的にあたる」として,いずれも厳格な合理性に持ち込んでいるということである。いずれにせよ,バランス感覚としては,「積極目的であるから,明白性の原則で足りる」とするのは,そもそも人権論の基本がない,と判断されかねないのではないかと思われる。
[7] 高橋説も,「特別の犠牲と言えるかどうかを具体的ケースに即して判断」と述べているのだが,これまで経済的自由に関する論点について,積極目的や消極目的の中身がブラック・ボックスに入っていて,その中身を明らかにしようとしていた高橋説にしては,損失補償になると突然,「積極か,消極か」では,説得力に欠けるようにも思える。損失補償に関しては,基本的な視座としては,「制約の程度が財産権の核心を損なうほど強度なものであるか」という観点から判断すれば足りると思われる。けだし,そのような程度に達していない限りは,特別な犠牲という必要はないと解するからである。そして,その程度の強度性を判断するのにあたっては,①規制目的を考慮するべきである。これは,消極目的であれば,そもそもその財産権の行使には他者加害のおそれがあるわけであるから,それが制限されるのは当たり前という発想がある。これに対して,積極目的となれば,全体の効用のために個人の財産が犠牲にされるという方向性となるから,補償が必要とみられることが増えるのは確かである。ただし,積極目的規制であるからといっても,単なる一般的かつ行使の規制にとどまる場合,通常は損害としての個別性に乏しくそもそも制約がないか,その程度も僅少かという評価をなさざるを得ないように思われるし,そもそも福祉国家の理想の下,ある程度の財産権の制約は,もともと憲法が予定しているところということも考慮すると現実には積極目的だからといって,補償を要するとの判断がされることは,あまりないように思われる。近時は,状況拘束性という観念も考慮要素として入れられている。これは,もともとある状態をフリーズさせるにすぎない場合は制約の程度が強くないとするメルクマールである。さらには,時的要素も考慮要素である。結局,特別の犠牲にあたるかは,上記の要素の総合判断によるしか適切な判断は期待できないと思われる。
ところで,平成18年度旧試第1問を検討してみると,放送法の改正法が施行されることによって,Xテレビ局に数十億円の減収となる場合に補償は必要であるかをいうことを考えてみると,規制の目的は,国民がメディアにアクセスすることが妨げられないようにするということであり,突き詰めると「知る権利」の保障を図るためとできる。これは,対立利益は人権ということができるから,単なる全体の効用ために個人に特別の犠牲を強いるというわけではないところ,積極か消極かという観点で考えれば,19世紀的な国家がなすべき規制とはいい難い点に照らすと積極目的と評価される。そうすると,本文の定式に照らすと,特別な犠牲になりやすい。そして,法律による一般的な規制といっても実際に影響を受けるのは一般放送事業者のみであるから,不利益が生じる範囲は限定的といえる。もっとも,補償が必要か重要なポイントとなるのは,営利広告の放送の態様の規制にすぎないということであろう。上記の考慮に照らすと,規制の程度が結局強ければ内容規制に近いという基準を立てて考えていけば,1時間あたり5分間に限定するということになれば,かなり内容規制に近いということになるので,単に行使の制限と同視するというわけにもいかないように思われるのである。こうしてみると,旧試のケースでは,補償が必要と解するのが妥当のように思われる。
[8] 高橋説は,農地法事例については,「財産の帰属ルールが不公正として問題となり,公正なルールによる再配分を行おうとしたもの」と評価している。これは,先述の「大きな財産」と「小さな財産」との区分論を意識すると分かりやすい。つまり,農地改革では封建的な地主による小作農の搾取をなくすという国家政策があったわけであるが,「地主的所有」というのは,大きな財産にあたるといえるから,これを取り上げることも公共の福祉に合致する場合はあることは当然のことである。そして,「特別な犠牲」といい得るのであれば,損失補償が必要になるのであるが,このような地主的所有は,もともと強い憲法的な所有権が補償されているわけではないから,とりたてて強度な特別な犠牲というわけではなく,それなりの特別の犠牲しかないという相対的な評価をしていると思われる。このように考えると,トータルで損失補償の額が低額にとどまる「相当補償説」でも妥当と解しているように思われる。ただ,こう考えるとそもそも収用にもかかわらず補償はいらないのではないかというようにも思われる。