名古屋の弁護士による財産犯以外の犯罪
第1編 生命・身体に対する罪
第1 殺人の罪
1 殺人罪
(1) 人の意義
(2) 実行行為
(3) 故意
ア 殺意の認定の方法
殺意は,行為者の認識,すなわち事実のことをいう。事実の有無は,情況証拠に経験則を適用して推認
イ 殺意の認定の視点
①傷,②凶器,③動機
(4) 殺意認定各論
ア 犯行の態様
大コンメンタール刑法274は,殺意の認定で中心的要素なるのは,「凶器の種類・形状・用法,創傷の部位・程度」であると断言する。そして,「要は,客観的な犯行態様とそれが内包する死の結果に対する危険性の程度が最も重要」であると指摘されている。かかる文献に叙述されているわけではないが,もとより,ある行為が行われた場合はそれが意思に基づいて行われたものと推定されるのが通常である。したがって,行為の態様が結果発生の危険性を伴うものであれば,必然的に行為者は行為の意味を認識していることになる。そして,行為の意味を認識している以上は,故意が認められるという論理であると思われる。このような観点から,実務上は,行為態様が争われることもままあることであると思われる。
⇒ 客観的な犯行態様が出発点!!
(ア) 凶器の種類
Ⅰ 原則的処理
至近距離から拳銃で被害者の頭部を撃った場合,殺意を推認できる
Ⅱ 例外的処理(殺意の推認不可)
① 行為者が凶器を闘争の最中に相手から奪い取った
② たまたま身近にあったので凶器を手にした場合
∵ 殺意の認定は,行為者が凶器を意識的,計画的に携帯したかを重視。例外的処理の場合は,凶器の性能を認識していない
(イ) 凶器の形状
Ⅰ 原則的処理
相手に致命傷を負わせる刃物を使用した場合,殺意認定の有力な情況証拠
殺意なしの刃物 | 殺意ありの刃物 |
①小型の果物ナイフ
②安全剃刀 ③刃の折れやすいカッターナイフであり,出ている刃は3センチだけ *比較的小さいもので危険性が小さい |
①一般的には,刃渡り10センチ以上の刃物は相手方に致命傷を負わせられる。
*菊池弁護士も刃の長さが10センチを超えると殺意を認めざるをえないとする |
(ウ) 凶器の用法
Ⅰ 原則的処理
力を込め,繰り返し凶器を使用した場合には,殺意を推認しやすい
Ⅱ 考慮要素
①力の入れ具合,②使用回数,③相手の抵抗の有無,④相手との位置関係
* 凶器の効果を減殺する事情がないかにも注意。例えば,冬の野外という場合は防寒具を着ており,殺傷効果が減殺される場合
* 包丁の用法は,突き刺すというのが通常であるから,例えば,投げつけるのは珍しく,確定的殺意の認定は難しい
イ 創傷
(ア) 創傷の部位
Ⅰ 原則的処理
死の結果をもたらす枢要部分に創傷部位があるか
Ⅱ 考慮要素
①胸部,②心臓部,③頭部,④顔面,⑤腹部,⑥鎖骨上部,⑦頸部
(イ) 創傷の程度
『創傷の程度』は,加えられた打撃の強さ又は回数の多少を示すもの
殺意否定例 | 殺意肯定例 |
① 刺創の深さが1.2センチ
② 5センチ ③ 6センチ *ただし,刃物の長さと比較して刺創が短い場合のみ |
①身体全部にわたる大小38個の挫創
②『左胸部』の深さ11センチの刺創 ③『腹部』の深さ15センチの刺創 ④ 『右側胸部』から前胸部に及ぶ22センチの刺創 |
(ウ) 刃物によるとっさの刺殺
視点 創傷の部位からの殺意の認定は,その部位を認識していた場合のみ
殺意ありのケース | 殺意なしのケース |
被告人Xは被害者Pの身体を左手でつかんだ上,眼前にある被害者の胸などを数回突き刺している。 | ①被告人Xは被害者Pともみ合いになった状況で包丁が胸に刺さった場合
②右肩を刺そうとしたら胸に刺さった場合 |
* 凶器を持って相手方と格闘をする緊迫状況下では部位の認識はないことが多いが,アバウトな認識はできるので,行為者が特に枢要部分を除いて攻撃をしていた情況がない限り,故意は認められる。
* 格闘の場合は,被害者が行為者を押さえつけようとして向かってきたという事情がないかに留意すること。予期以上の重症を負わせることがある。
ウ 犯行の動機
Ⅰ 原則的処理
殺意を抱くには理由があるので,行為者が殺意を抱く怨恨や憤懣があるか
Ⅱ 考慮要素
①行為前後の状況,②性格,③交際関係,④鬱憤を抱いた期間
エ 犯行中又は犯行後の被告人の言動
Ⅰ 原則的処理
殺意は,犯行後の行動からも推認されることがある
Ⅱ 具体的処理
殺意が推認されるケース | 殺意が推認されないケース |
① 被害者を放置しておけば死ぬことが明らかであるのに,傍観,放置,立ち去りなどの行為に出た場合は,死の結果を認識認容したものと判断される。
② 犯行中,『殺してやる』と叫んでいた場合は,相手方に対する攻撃意欲が高いものと推認される。 |
① 一回攻撃をしたのみで,しかもその後は死の結果が生じないように全力を尽くしている場合には殺意否定
② 攻撃後特段の措置をとっていないが,それは茫然として何もできなかった場合は殺意否定 ③ 行為者が犯行現場を離れた後,日常生活に戻っている場合は,死の結果を予見していたなったものと推認される場合がある。 |
オ 責任能力の関係
実務上は,弁護人の側からは,心神耗弱状態であるから,故意がないという趣旨の主張が出されることは珍しいことではないように思われる。たしかに,一般的には,責任能力の存否・程度と故意の有無は別問題であるといえる。しかしながら,ある程度の知的レベルがないとメカニズムの認識ができない場合もある。例えば,放火の場合に本人としては枕を燃やすつもりで火をつけたにもかかわらず,建物全体が焼損した場合はどうであろうか。この点について,一般人が被疑者・被告人であれば,ベッドの上の枕に火をつければ,「燃え移る」というメカニズムから建物全体に火が回るということを容易に認識することができるはずである。したがって,ベッドの上の枕に火をつけるという客観的な犯行態様の危険性に照らして,放火の危険性の程度が高いということになるから,一般人であれば容易に故意は肯定できる。ところが,責任能力が低下しており,そのような意味の認識ができなくなる可能性がある。そうすると,本当に客観的に行為の危険性があったとしても,その意味,つまり燃え移るというメカニズムを理解していないものである以上,建物の放火についての故意はないと言わなくてはならないという場合もないことはないであろうと思われる。
このような理論的視座からすれば,一般人を基準とすれば故意が容易に認められるとしても,その行為者の責任状態を基準とすれば故意が認められないという可能性はあるように思われる(私見)。
第2編 自由に対する罪
第5 住居侵入罪
1 保護法益
● 平穏説
×① 住居の平穏とは何かが明らかにされていない
② 個人の意思や承諾の有無と関わりなく犯罪の成立が決定されるのは疑問
③ 不退去財は住居権者の意思に基づく退去命令で成立する
○ 住居権説
2 客体
(1) 住居
住居とは,日常生活に使用されている場所をいい,法律上の権限の有無を問わない。邸宅とは,居住用の建造物で住居以外の空き家や別荘のことをいう。建造物とは,住居,邸宅以外のものをいい,官公庁の庁舎や学校にあたる
(2) 囲繞地
これらに附属する囲繞地も含まれる。囲繞地とは,建物に附属する土地で管理者が門塀を設けることにより建物の附属地として利用することが明示されているものをいう
(3) 看取する
邸宅と建造物は看取されている必要があるところ,看守するとは,建物等を事実上管理・支配するための人的・物的設備を施すことをいい,単に立入禁止の立札を立てるだけでは足りない
3 住居侵入罪
(1) 侵入の定義
侵入とは,住居権者の意思に反して,住居に立ち入ることをいう
(2) 住居権者が複数いる場合
住居権とは,事実上の支配・管理をいうのであるから,居住者は原則として平等の住居権を有すると解すべき
(3) 住居権者の同意が錯誤に基づく場合の処理
法益関係的錯誤の理論からは,住居権者に住居への立入り自体についての錯誤がない以上,その同意は有効であり,住居侵入罪は成立しない
(4) 一般に立入りが許容されている場所への違法な立入り
一般に公開されている建物については,通常の形態の立入りである限り,それは当該建物管理者の事前の包括的同意の範囲内にあり,住居侵入罪は成立しないと解すべき
第3編 名誉・信用に対する罪
第2 信用及び業務に対する罪
2 業務妨害罪
(1) 業務の意義
ア 業務の定義
業務とは,職業その他社会生活上の地位に基づき継続して行う事務又は事業をいう
イ 業務の要保護性
当該業務の反社会性が業務妨害罪の保護の必要性を失わせる程度に至っているかを基準とすべき
∵ 覚せい剤の製造や販売でも平穏に行われていれば,『業務』にあたるとするのは不都合
(2) 公務と業務
問題意識 妨害の手段が威力,偽計にとどまった場合に,公務も業務に含まれるか(公務執行妨害崩れを業務妨害罪がフォローすることができるか)
● 無限定積極説
× 逮捕行為や強制執行のように,自力で抵抗を排除しうる権能を付与されている場合にまで威力による保護を認める点で妥当でない
● 消極説
× 公務というだけで偽計・威力から保護されないとする理由はない
● 公務区分説
× 公務が公共の福祉を目的とするものであるから,民間の業務よりむしろ厚く保護されるべき
○ 限定積極説[1]
* 限定積極説によっても,『自力排除力』というメルクマールは権力的公務を偽計によって妨害する場合には妥当しないと解すべき
∵ 自力排除力が偽計という妨害を排除する機能を有しないから(強制力を持っていても偽計に対しては無力であると解されるから,偽計業務妨害罪については,無限定積極説が妥当である(山口159)
⇒ 虚偽の車両盗難の被害届により本来の機動隊の業務を妨害した事例など
(3) 手段
判例は,結果として業務妨害が存在する限り業務妨害罪の成立を認めており,人の意思に対する働きかけである必要はなく,対物的加害行為も含めている[2]
視点 判例は,業務妨害罪を「業務の円滑な遂行」を保護するものととらえているため,偽計と威力の区別も本質的な意義を失い,単に業務妨害の手段が公然か非公然かという差異でしかなくなっている
ア 偽計業務妨害
偽計とは,人を欺罔し,又は,人の不知,錯誤を利用することをいう
⇒ 非公然と行われる妨害の場合まで含まれるに至っている
イ 威力業務妨害
威力とは,人の自由意思を制圧するに足る勢力の使用をいう
⇒ 威力の概念は拡張され,公然と行われる妨害行為が広く含まれている
(4) 妨害の意義
妨害したとは,判例は,妨害の危険を生ずれば足りるとして危険犯であるとするが,侵害犯と解すべき理解も有力である
視点 有力説からは,業務遂行に多少とも外形的混乱・支障を生じたことを必要とすると解すべき
第5編 公衆の安全に対する罪
第2 放火及び失火の罪
1 総説
(1) 具体的危険犯・抽象的危険犯
抽象的危険犯 | 具体的危険犯 | |
条文の振分 | 108条
109条1項 |
109条2項
110条 |
法益侵害との関係 | 構成要件該当事実があれば,危険の発生があると推定 | 構成要件の内容として具体的な公共の危険の発生が要件 |
既遂時期 | 客体を焼損すれば足りる | 具体的に危険が発生したことの立証が必要* |
*具体的危険犯の客体を『焼損』しても危険の発生の立証に失敗した場合
110条1項 | 109条2項,110条2項 | |
具体的処理 | 器物損壊罪(浦和地判平成2年11月22日判時1374号1411頁) | 無罪 |
(2) 『公共の危険の発生』の有無の判断
視点 一般通常人が延焼などの危険を感じる程度に至っているか否か
考慮要素 ①火力の強弱,②可燃物との距離,③延焼の難易度,④気象条件―などを考慮して判断する
『公共の危険の発生』の否定例(前掲浦和地判平成2年11月22日) | 『公共の危険の発生』の肯定例(最決昭和59年4月12日刑集38巻6号2107頁) |
自動車の後部0.56メートルという至近距離に木造トタン張りのアパートが存在していたが,火力の程度が弱かった。具体的には,炎の高さが最大でも約10センチであり,7・8回息を吹きかけたら消えたという程度の火力というケース | 自動車を焼損し,付近建物との距離が5.3メートルも離れていたが,自動車の内外に多量のガソリンを撒いたうえで,火炎瓶を車内に投げ込んで炎上焼損させたという場合において,火力が約3メートルの高さにも及び,目撃者も延焼の危険を強く感じたケース |
*基本的な視座としては,火力が強く,木造建築物との距離が短ければ,『公共の危険の発生』を認め,火力が弱く,木造建物との距離が長ければ否定する。延焼の難易度や気象条件は付加的な要素にとどまると解される
2 現住建造物等放火罪
(1) 放火罪の行為(着手時期)
ア 放火罪の実行行為
客体の焼損に原因を与える行為をいう
イ 既遂時期
放火行為に着手し焼損すれば既遂[3]
ウ 着手時期
客体や媒介物に点火行為があれば実行の着手を認めることができる
検討 点火行為がない場合でも実行の着手を認めることができるか
∴ 認める余地はないではない(しかし,かなり慎重に!!)[4]
∵ 引火性の強いガソリンやガスを屋内ないしその付近で用いて建物焼損の客観的危険性が高度にあれば,点火行為がなくても実行の着手が認められる
⇒ このケースでも直後の媒介物への着火行為があればその時点を着手時期にする方が穏当(自然に発火するおそれの有無を考慮すべき)
(2) 焼損[5]
ア 定義
焼損とは,類型的に公共の危険を生じさせる程度に至った時点のことをいい,木造建築物については,火が媒介物を離れて目的物に移り,独立して燃焼し,かつ,それがある程度継続しうる状態に達する状態をいう[6][7]
∵① 放火罪は公共危険罪
② 失火罪は未遂犯処罰規定がないから焼損概念を緩やかに解すべき
*判例は,『ある程度の燃焼の継続』を公共の危険発生を示すメルクマールとして利用している。したがって,建材や周囲の状況を考慮すると,既遂に達するのに「より時間的に長い継続状態」が必要と解されることになる。
*前田初版388は燃え上がり説を採用していたが,改説したのは「ある程度の継続性」という部分に着目したからである。前田372の定義が燃え上がり説に近いのもこのような理由があると解される[8]
イ 補足説明抽象的危険犯の「公共の危険の発生」
● 擬制説
× 抽象的危険犯の処罰根拠となる危険という結果が発生しない場合は処罰根拠を欠く
○ 危険発生必要説(山口)[9]
∵ 現住建造物放火罪の処罰根拠は,Ⅰ公共の危険及びⅡ建物内部の人に対する危険の惹起であるから,この2つの危険のいずれかを全く欠く場合は,現住建造物放火罪の構成要件該当性が否定されるとする
×① 人に対する危険をいちいち認定することなく放火を禁圧すべき
② 消火のために駆けつけた人々の生命・身体の安全が無視される
③ 危険性の認識がないと故意を欠くがそれは妥当性を欠く
(3) 客体
ア 建造物の意味
建造物とは,屋根を有し,壁又は柱によって支えられ,土地に定着し,その内部に人の出入りが可能なものをいう。
イ 建物の一部か器物かの区別(『建造物』にあたらないとの主張)
判例は,損壊しないで自由に取り外しをすることができるかを基準とするが,今日では,取り外すことが容易ではない場合を包含する概念と理解される
ウ 現住建造物の射程距離(その部分は『現住性』がないとの主張)
特に,建造物の一部分としても,耐火性高層建造物については,内部の部分的独立性を認め,全体は現住性を認めてもその部分は非現住と認定できるか[10]
視点 (①②は平安神宮事件判決の規範を参考にしている)
① 「一部に放火されることにより全体に危険が及ぶ」という物理的な意味での一体性(居住部分への延焼などによる危険伝播可能性)メイン
* 延焼可能性も考慮して「一部に放火されることにより全体に危険が及ぶ」関係にあるかを判断するには,「客体性」の判断の問題であるから,実質的な危険性判断を行うのではなく,具体的事情をある程度捨象して一般的・類型的に判断するべき(放火行為の危険性の程度は考慮してもよいが,行為当時の風向きや湿度,消火体制の充実度は考慮されない)
* 当該建物の具体的な耐火構造から判断して,居住部分への類型的な延焼可能性が認められるかがメルクマールになる
② 「全体が一体として日夜,人の起居に利用されている」という機能的一体性補助的
* 機能的一体性が強く認められても,およそ物理的一体性がまったくない場合には,建造物としての一体性は否定される[11]
* 上記①②のいずれかがあれば,現住性の射程距離は及ぶ[12]
物理的に1個の建造物の場合 | 物理的に2個の建造物の場合 |
1個の建物であり,その一部に放火されることにより全体に危険が及ぶ構造の場合は,現住部分と非現住部分があっても,全体が1個の現住建造物 | 2個の建造物から構成されていても,機能的な観点からみると1つの構造を持つ場合は現住性が認められる |
設例 Xは,鉄筋コンクリート造りの12階建てのマンション内に設置されたエレベーターの籠の内側にガソリンのしみこんだ新聞紙を置き,それにライターで点火し,エレベーターのかごの側面に燃え移らせてエレベーターの籠の鉄板の表面の化粧シート0.3平方メートルを焼損させた
弁護人として主張すべきこと
① 籠は毀損しないで取り外しができるから,『建造物』(108条)にあたらない
② 『建造物』にあたるとしても,マンションの居住部分と独立しており,『現に人が住居に使用し』(108条)とはいえず,109条1項が成立するにすぎない∴ 現住性は認められる
∵① エレベーターが居住部分と一体的に使用されている限り,玄関の延長としてとらえられる。住人の危険性は居住部分のそれと異ならない。
② 玄関に人がいなくても現住性が認められるように,エレベーターにも現住性についての抽象的危険は十分ある
イ 現住性
現住性があるとは,放火の当時,人の起臥(きが)寝食の場所として日常使用していることをいう(放火の時点において人が現在することを必要としない)
∵ 住居であれば,いつ何時居住者や来訪者が中に立ち入り,放火により生命身体に危険を被るかも分からない
視点 現住建造物放火罪は,①抽象的公共危険犯,②建造物内部に存在する可能性のある人の生命,身体についても抽象的危険犯とされており,二重の意味で抽象的危険犯といえるところ,現住性以外限定的機能を有するものがないのであるから,現住性はかなり慎重に解釈するべきである
3 非現住建造物等放火罪
(1) 客体
(2) 自己の所有物に対する「公共の危険の発生の認識」
ア 認識不要説(藤木説)[13]
∵① 109条の文言を素直に読む限り,立法者は公共の危険の発生を実質的に客観的処罰条件として規定している
② 客観的処罰条件である公共の危険は故意の認識対象ではない
イ 認識必要説(通説)
∵① 自己の所有物の焼損それ自体は違法でなく犯罪ではない
② 公共の危険の発生は構成要件要素とみるべき
× 現住建造物,他人所有の非現住建造物に対する「延焼の危険の認識」(108条,109条1項の未必の故意)との区別が不可能
(3) 「延焼の危険の認識」と「公共の危険の発生の認識」
公共の危険の発生の認識とは,公共の危険発生の予見はあるが,延焼を予見することのない心理状態,すなわち,放火行為により一般人をして延焼の危惧感を与えることの認識をいう(最決昭和59年4月12日の谷口裁判官意見)
*公共の危険の発生の認識はあるが,延焼の危険の認識がない場合
ケース① | ケース② |
自己所有の小屋に火をつければ人家に延焼する可能性がないわけではないことを認識していた(公共の危険の認識)が,丁度風が人家の方から小屋の方向に吹いており,風下に人家はまったくなかったので,人家に延焼することはないと確信して火をつけた場合 | 有毒ガスや煙の発生による危険,火力による火傷の危険,付近の人々が出火を見て退避しようとして受ける種々の危険などのように,延焼の危険とは別個の公共の危険も生じ得る |
4 建造物等以外放火罪
(1) 公共の危険
『公共の危険』(110条1項)とは,108条及び109条1項に規定する建造物に対する延焼の危険のみに限られるのではなく,不特定又は多数の人の生命,身体又は前記建造物以外の財産に対する危険も含まれている(最決平成15年4月14日(刑集57巻4号445頁)
*あまりに軽微な危険は除かれており,建造物に準じるものへの延焼の一定程度以上の危険が要求される。担当調査官は,「地域の平穏を害する程度のものか否かを基準とする説」がもっとも判旨をよく説明できると指摘する[14]。そして,地域の平穏を害するか否かは,次のような手順によるべきと思われる。まずは,①延焼の危険の可能性がある対象物を特定し,②その対象が不特定のものといえるかや,③延焼した場合の規模などをその場所的環境に照らして判断すべき
(2) 公共の危険の認識
設例 暴走族グループ甲組のリーダーXは,同グループに所属するA,Bに対して,「対立するグループ乙組のオートバイを人里離れた所で燃やせ」と命じたところ,後日,A,Bは,C宅応接間のガラス窓から約30センチしか離れていない軒先においてあった乙組のメンバーDのオートバイを発見し,ガソリンを流出させてこれを焼損し,さらにC方家屋に延焼させた
問題意識 Xにも110条1項の共同正犯が成立するか
ア 判例[15]
∴ 成立する(公共の危険の認識は不要)
∵ 立法者は現実に客観的に危険の生じた場合のみを処罰するように限定を加えたのであるが,危険を発生させながら危険の不発生を軽信した者まで不可罰にすることは考えられない
イ 学説
∵ 成立しない(公共の危険の認識は必要)
∵① 110条は器物損壊の結果的加重犯ではない
② 110条の公共の危険が構成要件要素である以上,当然,認識も故意の内容となる
③ 単なる器物損壊の意思を放火罪の故意であるとして,重い放火罪の責任を負わせることは結果責任を認め責任主義に反する
第6編 偽造の罪
第4 文書偽造の罪
1 保護法益
文書に対して社会一般人が抱く信用(文書の公共的信用)
⇒ 個人的法益を侵害する犯罪ではないので,文書の信用性を害する抽象的危険があれば刑法は成立!!
2 文書
(1) 文書
文書とは,文字又は文字に代わるべき符合を用いて,ある程度永続すべき状態において,物体上に記載された意思又は観念の表示をいう
(2) 可視性・可読性
文書とは,見て読めることが必要
(3) 名義人の意味
ア 名義人の意味
文書とは,意思又は観念が表示されたものをいうので,文書に表示された意思又は観念の主体として名義人が必要である
イ 観念説(作成者は,社長か社員か)
観念説とは,当該文書がその意思に基づいて作成されたところの者を作成者とするものをいう
● 事実説
× 社長名で当該文書が作成されているので外観上の名義人は社長になってしまい,私文書偽造の構成要件該当性を認めることが妥当でない
● 観念説
∵ なぜ,『作成者』を確定するのに現実の作成行為ではなく作成意思を問題にするのかが問題となる。この点,文書の信頼の対象は,「文書の内容に対して名義人が責任を引き受ける」という点にある。とすれば,作成者は,責任を引き受ける文書作成を作成させた者にすべき
⇒ 「作成行為を誰がしたか」という観点は重要でなく,「誰の意思に基づいているか」の観点の方が重要!!
ウ 観念説内部の対立
● 事実的意思説
事実として誰の意思に基づいて文書が作成されたかを基準とする
● 古典的な規範的意思説(法律効果帰属説)
文書の効果が誰に帰属するかの意思を基準とする(効果帰属の基準を法的効果に求める)
⇒ 作成された文書に表示された意識内容に基づく法律的効果・効力が本人(名義人)に帰属するのであれば作成者は本人(名義人)であり,作成者と名義人の不一致は生じないので『偽造』はないことになる
∵ 有形偽造罪における保護法益は文書内容に名義人が保証を与えていることに関する流通に関与する人たちの信頼であるから,名義人が責任を負わない文書が『偽造』と解すべき
×① Ⅰ名義人に対してその文書の内容通りの法律的効力を帰属させられるかという問題とⅡ当該文書が真正か否かという問題は無関係ではないか
② 文書の成立の真正さは取引の安全の要請とは分離するべき
○ 新しい規範的意思説(文書に対する責任帰属説)[16][17]
文書の効果が誰に帰属するかの意思を問題にする点は古典的な規範的意思説と同じであるが,その効果帰属の基準を文書の内容について保証する地位にあるかという視点に求める
∵ 文書が公共の信用の対象となる根拠は,証明手段としての証拠の機能にある。そうすると,偽造の処罰根拠は,名義人が文書について文書の内容は自己に由来することを保証するところ,偽造文書の場合,かかる保証がなされておらず,証拠として使用できない点にある。
⇒ 文書とは,意思・観念の表示の証拠と解すると,意思・観念の帰属主体を作成者と解すべきことになる。言い換えると,作成者とは,文書として表示された意思・観念が客観的に帰属する主体をいう。そして,『客観的に帰属するか』の基準について,法的効果ではなく,文書の内容の保証をする地位にあるか―いう視点が基準
⇒ 偽造とは,表示された意思・観念が作成名義人に帰属しない文書を作成することをいう(山口432)
(4) 名義人の存在
一般人をして,実在する者が真正に作成した文書であると誤信させるおそれがあれば,偽造罪は成立する(名義人の実在は不要)
(5) 原本性(写真コピーの論点)[18]
ア コピーは「文書」に該当するか
視点 コピーは,「本物」として偽って行使されるケースはほとんどなく,問題とされるのは,本物の存在を示すための「写し」として用いるケースが前提となっていることに注意
● 改ざんした文書が原本それ自体に対する文書の偽造・変造といえる場合や,コピーを「原本」として行使した場合は,原本についての『偽造』と評価できるが,偽造・変造に至らない文書を利用してその写しを作成した場合には,その写しがいかに精巧にできているからといって,それを原本と解することは類推解釈として否定されるべき(西田330)
× 原本に代わる証明文書として通用し,原本と同様の社会的機能と信用性が認められているという社会的実態があるから,コピーに対する信頼は一般人の原本に対する信頼と変わらないはず
○ 原本に準じて新たな文書性を肯定するべき
∵ 文書概念をこの程度に実質化することは罪刑法定主義に反しない[19]
補足 最判昭和51年4月30日刑集30巻3号453頁の射程距離
本判決は,写真コピー一般について判示したように論定したものではなく,その対象を公文書偽造罪にいう公文書の写真コピーに限定し,被写原本と同視し得る機能と信用性を保有するものに限る趣旨
⇒ 調査官解説は,「今後の類似事案の処理に際しては,写真コピーのもつ機能と信用性に関する判断が重要となる」と指摘している。調査官解説は,「文書の作成名義は,文書上に作成者として表示されているかどうか」という形式的表示のみで決定するのは妥当でなく,「写真コピーが被写原本に代えて用いられているという社会的実態があるか」という,実質的考慮を加味して,慎重にコピー文書の名義人が原本の名義人であるかを吟味すべきとする
*調査官解説の個々の文書の具体例
視点 原本自体でないと用をなさない性質のものであるか
種類 | 調 査 官 の 評 価 |
有価証券 | 証券面上に権利が化体されているので原本そのものに法律上重要な意義があり,その写真コピーは原本と同視することができるという社会的実態は存在しない |
公文書 | 一般に写真コピーが原本に代わるべきものとして通用しているが,例えば,自動車運転免許証や郵便貯金通帳など,被写原本の内容のみならず,その存在自体が社会生活上重要な意味を持っているという文書の写真コピーは原本と同視できるという社会的実態は存在しない |
私文書 | 論旨が明確ではないが,一般論として判例の射程は,私文書にも及ぶことを前提としつつも,写真コピーのみによって取引が行われるという社会的実態の存否について問題はあるとするから,例外的に原本と同視できない場合を認めている趣旨と思われる |
診断書 | 診断書のコピーは原本に代わるものとして通用している |
印章及び署名・記号 | (文書ではないが)文書について写真コピーの文書性を認めるとこれらについても偽造を肯定する関係にあるという |
イ コピーの名義人は,原本の名義人かコピーの作成者か
∴ コピーの名義人は原本の名義人と解すべき
∵ 原本作成名義人の意識内容を保有する文書であるから
3 偽造行為(名義の冒用・資格の冒用など)
偽造とは,名義人と作成者の人格の同一性を偽ることをいう
(1) 代理名義の冒用
ア 代理人名義の文書の名義人は誰か
∴ 名義人は本人で作成者は代理人と解すべき
∵① 代理形式の文書は法律行為が代理される本人の帰属する形式の文書
② 社会はその文書が被代理人の意思を表示したものという点を信用する
イ 山口説[20]
∴ 文書に記載された意思表示が名義人に帰属するかを判断基準とする
ウ 責任主体であるか否かメルクマール
代理人の肩書きが当該文書に対する公共の信用の基礎となっている場合は,代理人も責任主体の一部となるから名義人の一部を構成する[21]
エ 最決平成15年10月6日刑集57巻9号987頁[22]
調査官解説は,「名義人の特定については,文書に表示されている個人名や団体名だけを取り上げて形式的に判断するのではなく,当該文書のその余の内容や性質等をも考慮に入れて,一般人において当該文書の名義人がだれであると認識するのか(だれの文書であると思って信用するのか)という観点から実質的に判断する必要がある」と指摘し,「作成権限を有する者により作成されているということが,正にその社会的信用性を基礎付ける」ものであるから,名義人を特定するにあたっては,「名義人の人格の内容として,国際運転免許証の発給権限という資格を取り込むべき」と説明されている。
× このような考え方を推し進めていくと,Aによる肩書きの冒用について,その肩書きが重要であれば肩書きを有するAという別人格を想定することになり,従来不可罰とされてきた肩書きの冒用についてまで処罰の対象にする危険をはらんでいることを自覚すること[23]
(2) 資格の冒用
ア 最決平成5年10月5日刑集47巻8号7頁
∴ 本当の弁護士甲の名義を偽った他人名義の文書にあたる
∵ Xは同姓同名であることを利用し,住所も本当の弁護士甲の住所にする
イ 無資格Xが「医師X」と名乗り偽診断書を作成しXをよく知るAが受け取った(診断書には病院の所在地や電話番号も記載されていた)
∴ 有形偽造にあたる(最判平成15年10月6日の調査官解説の見解)[24]
∵① 診断書も法令上権限(資格)がないと作成することの許されない文書
② 文書の信用性は資格を有する医師により作成された診断書である
(3) 代理権限の濫用
∴ 権限の範囲を超えた事項について本人名義の文書の作成については偽造
∵ その部分は作成権限の授権なし
(4) 偽造と変造の区別
変造とは,真正に成立している他人名義の文書の内容を勝手に変更することをいう
偽造とは,文書の本質的部分に変更を加えて新たな文書を作ることをいう
(5) 行使の目的
行使の目的があるというには,①偽造文書などを他人に閲覧させて内容を認識できる状態に置く意図があること,②偽造文書などを真正な文書として誤信させる意図があること―が必要
4 公文書偽造罪
公文書とは,公務所又は公務員がその名義をもって,その権限内において所定の方式にしたがって職務上作成すべき文書をいう
5 虚偽公文書作成罪
6 公正証書原本不実記載罪
(1) 客体
① 「権利若しくは義務に関する公正証書の原本」
公正証書とは,公務員が職務上作成する文書であって,権利義務に関するある事実を証明する効力を有するものをいう。権利義務に関するある事実とは,権利義務の発生の基礎となる住所という事実を証明する「住民票」も含むという意味である
② 「公正証書の原本として用いられる電磁的記録」
(2) 行為
実行行為は,公務員に対して虚偽の申立てをし,公正証書の原本に不実の記載をさせ,あるいは,公正証書の原本として用いられる電磁的記録に不実の記録をさせることをいう
7 免許不実記載罪
8 私文書偽造・変造罪
(1) 客体
「権利,義務又は事実証明に関する文書」
① 権利・義務に関する文書とは,権利義務の発生・変更・消滅の要件となる文書及びその原因となる事実についての証明力のある文書のことをいう
② 事実証明に関する文書とは,実社会生活に交渉を有する事項を証するのに足りる文書をいう
(2) 名義人の承諾と偽造罪の成否
ア 原則的処理
作成権限者から名義の利用について承諾がある場合は『偽造』にあたらない
∵ 名義人の承諾がある以上,観念説を前提とすれば名義人と作成者に不一致はない
イ 例外的処理
文書の性質上,作成名義人たる署名者本人の辞書を必要とするもので,作成名義人以外の者がこれを作成することは法令上許されていない場合
∵ 名義人はそれらの文書に責任を負担する立場ではない。例えば,交通事件原票についてみると,「交通違反の事実について間違いがない旨供述して責任を負う」という文書の内容について責任を持つのは,行為者であり名義人ではなはない(規範的意思説の帰属説を前提としているとみられる[25])
*公文書と私文書の比較
公文書の場合 | 私文書の場合 |
公文書について名義人の承諾が否定されるのは,公文書が公的(公法的)な意思・観念の表示であって,名義人に作成する権限が専属させられており,法令など例外がない限り名義人以外の者に作成されることは許されていない | 公文書と共通した特殊性を持つ私文書がみられる。典型的には,①交通事件原票や②一般旅券発給申請書が挙げられる。これらは私文書といっても,公的手続内でのみ使用される。 |
公文書は,その性質上,公正とみなされその証拠力及び信用力が強く,公的な手続の中で作成・使用されているので,偽造に基づく被害の程度も大きいので,文書に対する公共の信用の確保が重要であるからという点が論拠 | 左の論拠は,一定の私文書についても同様のことがいえる。私文書といえどもその信用性が高度に要求される性質の文書ということがあり得る。国井283は,「公文書と共通の特性を持つ私文書か」という点を指標にしている |
*公文書と共通の特性を持つ私文書の類型
① 特定の公的な文書の交付を目的とする申請書類
② 重要な公的帳簿への記載に直結する申請書類
③ 刑罰権の根拠などに結びつくもの
④ 入試の答案や資格試験の答案など人格の同一性が高度に要求されるもの
ウ 入試答案と私文書偽造
問題 Yは,私立大学を受験するにあたって合格する自信がなかったので,Xにいわゆる替え玉受験を頼み,試験当日,YになりすましたXがマークシート方式の解答用紙に,受験番号と設問に対する解答を記入して試験官に提出した。 (ア) 定期試験の答案は,『私文書』にあたるか
a マークシートは,「特定人の意思又は観念を表示した物体」といえるか
∴ 外見上,意味がない記号の羅列でも具体的設問との関係では意味があるから,意識内容の表示であることが如実に示されている
b 受験番号の記載は,「署名」と同視できるか
∴ 受験番号の記載があれば願書受付簿と照合することで名義人の特定可
c 定期試験の答案は「事実証明に関する文書」にあたるか
社会生活に交渉を有する事項を証明するに足りる文書といえるかが問題[26]
*本件答案は,いかなる意味で事実証明に関する文書といえるのか
証明する事実 | |
釧路地判網走支部昭和41年10月28日 | 入学試験の答案は,採点をまたずに,『合格の事実を証明する』文書である |
神戸地判平成3年9月19日 | 当該受験生がいかなる解答を記載したかを客観的に証明する文書 |
最決平成6年11月29日 | 答案は,受験生の学力の証明する文書ではないが,採点や集計の結果,それが学力を示す資料になるという意味で,学力の証明に『関する』ものとされた |
(イ) 志願者Yの承諾があったのに私文書偽造罪が成立するのか
∴ 成立する
∵ 文書偽造罪の処罰根拠は,文書の内容について保証し責任を持つ人格を偽ることによってその文書の証拠としての価値を失わせる点にある。そうだとすれば,名義人の承諾があったとしても文書の内容について保証し責任を持つ立場にないといえるのであれば承諾があっても文書の公共的信用は害されるから『偽造』にあたると解する。
本件についてみると,本件答案は,先述のとおりYが卒業するに十分な実績を有するかという事実証明の資料とされるものであるから,当該答案の公共的信用は,名義人本人が文書を作成するという点を基礎に構成されている。そうすると,当該文書について責任を持てるのは,「自ら答案を作成したY」のみであり,「自ら答案を作成していないY」は,文書の内容について保証し責任を持つ立場にあるとはいえない。しかるに,本件答案はXが作成しておりYが自ら答案を作成していないから,当該答案に対する公共的信用が害されたと評価することができる。以上のとおり,本件答案は文書の名義人と作成者の人格の同一性を偽っているから,『偽造』にあたる。このことは,Yが承諾していても異ならない[27]。
(ウ) Yに私文書偽造の共同正犯が成立するか
● 自己名義の文書について有形偽造が成立することはあり得ない
× 単独では私文書偽造罪の主体とはなりえない名義人も私文書偽造をなしうる者との共同実行により法益侵害を惹起することも可能
○ 成立する
(3) 通称名の使用と偽造罪の成否
問題 Xは窃盗罪で指名手配中であったが,弟と同一の氏名であるYを使用して生活し,Yの名前は当時Xの居住地域や会社の取引関係ではXを指し示すものとして通用していた[28]。
ア 基本的視座
通称は,ある限られた範囲において通用する場合,文書がその範囲内で流通するものでれば冒用とはならないがそれ以外は偽造となる
イ 偽造か否かの分水嶺
視点 形式的には名義人と作成者に齟齬があっても,実質的にも「人格の同一性」に偽りがあるかが問題
*同一性判断の考慮要素
① 氏名・本籍・生年月日などの身分事項についての形式的合致の有無
② 名義人の名称が作成者の通称として通用されるものか
③ 当該文書の客観的事情
(4) 偽名・仮名の使用
問題 本名を隠すために偽名でホテルの宿泊申込書を提出するような場合に私文書偽造罪は成立するか
● 当初より,宿泊代金を免脱する目的があり氏名・住所を偽った場合は,私文書偽造罪の成立の予知
× 宿泊代金免脱の意図がない場合について偽造を認めると偽名の使用が広く処罰の対象となってしまい妥当でない
○ 当該文書の現実的に問題となる利用目的との間で,別人格へのなりすましが生じているか,そのことが認識されているかで成立範囲を限定すべき[29]
第8編 国家法益に対する罪
第8 賄賂の罪[30]
1 賄賂罪の沿革
2 保護法益
● 職務行為の公正と解する見解(純粋性説)
× 単純収賄は,正当な職務についても成立するのであるから,加重収賄が基本類型であり,単純収賄がその危険犯と言う位置づけには無理がある
○ 信頼保護説[31]
∵ 刑法は,職務に関し賄賂を収受するという単純収賄を基本としており,公務が賄賂によって左右されたことまでは要求していない。
↓
刑法は,公務が賄賂によって左右されたのではないかという国民の不信を生じさせることによって,終局的には公務の円滑な遂行という国家の作用が害される
3 賄賂の意義
(1) 賄賂の目的物
賄賂とは,公務員の職務行為に対する対価としての不正な報酬をいう
(2) 社交儀礼
問題意識 わが国では贈答が一つの文化を形成しているので社交儀礼としての贈与と賄賂との区別が重要となる。特に,職務行為との対価関係は認められるが,贈与の程度が社会儀礼の範囲内にとどまっている場合をどう考えるか
∴ 賄賂性を否定すべき[32]
∵① 贈与の程度が慣習上社交儀礼として是認される範囲内のものであれば,公務の公正に対する信頼は害されない
② 対価性が希薄化することによって賄賂性が失われることに求められる
*当該贈与が社交儀礼の範囲内かの視点
① 公務員と贈与者の人的関係
② 公務員と贈与者の社会的地位
③ 贈与の金額
④ 贈与の時期や態様などが基準とされる
4 職務関連性
(1) 総説
ア 職務関連性の要件
賄賂の職務関連性の要件を要求するのは,公務の公正に対する社会一般の信頼が大きく失われる場合,すなわち,職務と利益の間に対価関係がある金銭の授受が行われた場合に処罰範囲を限定する趣旨
∵ 信頼保護説を徹底すると,すべての金銭の授受が賄賂となるが,これでは賄賂罪の処罰範囲が無限定になりすぎる
イ 賄賂罪の中心問題
賄賂罪が成立するには,職務と利益との間に対価関係があることが必要である。そして,利益の認定は難しくないところ,対価性は因果関係と性格がよく似ている。つまり,賄賂罪の中心問題は,利益と対価性のある職務行為をとこまで広げることができるのかという点にあることになる。
視点 職務の公正さが疑われるような場合には職務関連性が認められやすい
(2) 現在の職務
ア 具体的職務権限
職務とは公務員がその地位に伴い公務として取り扱うべき一切の執務をいう
原則 具体的職務権限に基づき現に担当している職務について賄賂罪が成立
視点 範囲は法令によって決まるが,その合理的解釈により当該公務員の権限に属すべき職務があるか
*あてはめの参考
自己の属する委員会とは異なる大蔵委員会の委員を含む他の議員に対して説得・勧誘をすることをいう | 職務は法令上の権限があればよいから,衆議院議員には法律案の発議,審議,表決の職務権限があるので肯定 |
総理大臣が運輸大臣に働きかけをすること | 内閣総理大臣には運輸大臣に対する指揮権が認められているので肯定 |
イ 一般的職務権限
具体的権限はなくても,その職務が公務員の一般的職務権限に属するものであれば賄賂罪が成立する(判例)
(ア) 判例の理解
● 一般的職務権限の範囲内であれば職務の公正に対する信頼が失われる
× 東京の税務署員が札幌の税務署の職務に関し金品を収受しても『職務』?
○ 一般的職務権限の理論の射程距離は,同一官署であり,職務権限の対象たる事務の性質が異ならない場合のみ
⇒ 一般的職務権限の理論の射程距離を踏まえると,判例は,一般的職務権限が同一であることを理由としているのではなく,①公務員の地位,②担当変更の可能性,③事務処理の具体的状況を考慮して,当該公務員が実際上公務を左右しうる可能性を有しているかを判断基準としている
(イ) 最決平成17年3月11日刑集59巻2号1頁
西田は,当該事件の捜査に関係する具体的・事実上の可能性のない警察官にその他の事項についてまで一般的職務権限の理論を拡大適用するのは妥当ではないと批判する[33]
ウ 職務密接関連行為
判例は,本来の職務権限には属さないものでも,その職務権限と密接な関係を有する行為については賄賂罪が成立するとしている
(ア) 職務密接関連行為の類型
類型 | 具体例 | 西田説の評価 |
① 本来の職務ではないが,慣行上又は派生的に担当している職務の類型 | 県会議員が他の議員を勧誘して議案に賛成させる行為 | 準職務行為といえるのであまり,『職務』といっても問題がない |
② 自己の職務に基づく事実上の影響力を利用する類型 | 国立芸大の教授が学生に特定のバイオリンの購入をあっせんする行為 | 事実上の影響力が職務権限によって裏づけされているか確認すべき |
(イ) 学説の評価
● 『職務に関し』とは,関連性さえあればよいという趣旨
× 『職務に関し』とは,『職務に対して』という意味である
○ 密接関連行為もそれが『職務行為』に含まれると解しうる限りで賄賂罪の成立ができるにすぎないと解すべき
∵ 職務でないものに賄賂罪の成立を認めることはできない
⇒ 特に②類型は問題であるので慎重かつ限定的に解すべき
視点 職務密接関連行為にあたるか否かメルクマール
① 当該公務員の職務権限と実質的な結びつきがあるか
② 公務を左右する性格を持つ好意であるか
③ 公務の公正を疑わせるかどうか
(3) 過去の職務
判例は,過去の職務すなわちすでに終了した職務について収賄行為を行った場合でも収賄罪が成立するとしている
ア 学説の対立
● 過去の職務についての収賄は不可罰と解すべき
∵ 賄賂罪の処罰根拠は,金銭により動機付けられて公務を左右する点にある
×① 刑法は,過去の不正な職務行為や過去のあっせん行為についても加重収賄罪(197条の3第2項),あっせん収賄罪(197条の4)を規定している
② 過去の職務と賄賂が対価関係に立てば,過去の職務の公正が害されたのではないかとの疑問を抱かせ,同時に現在の職務の公正が害されたとの疑念を抱かせる
○ 過去の職務についての収賄は可罰的と解すべき
イ 公務員が一般的職務権限を異にする地位に転職した後の収賄の賄賂罪の成否(転職後の収賄)
設例 宅建業者Yは,宅建業者への指導監督を職務とするP県建築部建築振興課宅建業係長Xに,指導監督に際して不正な便宜を図ってもらったことの謝礼として50万円を供与した。ところが供与の時点では,Xは,従前とは一般的職務権限を異にするP県住宅供給公社に県職員として出向していた
● 転職後の職務と前職が一般的職務権限を同一にする場合を除いては,事後収賄罪が成立する
× 転職後に一般的職務権限を異にする場合は事後収賄罪となり,異にしない場合は収賄罪となる根拠が明確ではない
○ 判例の立場が妥当[34]
∵ 一般的職務権限が同一だからといって,過去の職務が現在の職務と置き換わるわけではない。過去の職務についての収賄罪を肯定するのであれば,その範囲を一般的職務権限が同一である場合に限る合理的な理由はない[35]
(4) 将来の職務
公務員が将来担当するかもしれない職務であっても賄賂罪の職務にあたるといってよい。ただし,将来,その職務を担当する蓋然性が必要と解される
視点 蓋然性が認められる場合
①将来の職務が現在の職務と一般的職務権限を同じくすること
②その具体的行使が時期の到来や上司の命令等の一定の条件に係っているにすぎない場合(要は,役職に就けば自動的に因果を支配できる職務に限定)
5 各論
(1) 単純収賄罪
ア 主体
イ 行為
ウ 故意
① 賄賂性の認識
単純収賄罪の故意は,要求,約束,収受された金品が公務員の職務行為に対する不正な対価であること(賄賂性)の認識が必要
⇒ 対価性の認識がない場合や社交儀礼の範囲内の贈与であると認識している場合は否定
② 職務執行の意思が必要
職務執行の意思があることで,賄賂により公務を左右する危険が生じるから
エ 他罪との関係(恐喝罪が成立する場合に賄賂罪は成立するか)
(ア) 公務員に職務執行の意思がない場合
設例 警察官Xは,道路交通法違反の罪を犯したAに対して,検挙の意思がないのにそれを恐れるAに金員を交付させる目的で,検挙を行う旨を申し向けた。これに畏怖したAは,寛大な措置を期待して現金10万円を渡した。
∴ Xには,恐喝罪のみが成立し収賄罪は成立しない
∵ Xは,職務執行の対価として財物の交付を受ける意思がないので,職務に関して賄賂を収受したとはいえない[36]
⇒ 職務の公正を害する危険はない(純粋性説)
(イ) 公務員に職務執行の意思がある場合
設例 税務署職員Xは,納税義務者Aの税額を査定する際,査定をことさらに厳しくする態度を示したので,心配したAが現金10万円を差し出した。そこで,Xは,これを受領し査定の基準を不当に甘くした
∴ Xは加重恐喝罪と収賄罪の観念的競合,Yは贈賄罪が成立
∵ Xは,税務署職員として職務を執行する意思があり,職務執行の対価として財物交付を受ける意思のもと10万円をAから喝取している[37]
(2) 受託収賄罪(197条1項後段)
⇒ 単純収賄罪+請託=受託収賄罪
ア 受託収賄罪の制度趣旨
賄賂と対価関係に立つ職務行為が請託に基づく場合を加重類型と位置付ける規定である。これは,請託がある場合は,賄賂と職務行為との対価関係が明白となり,公務が賄賂によって左右されたとの疑念が深まり,それだけ公務の公正に対する社会一般の信頼を侵害する度合いも強まるからである
イ 請託の定義
請託とは,公務員に対しその職務に関して一定の行為を行うことを依頼することをいい,それが正当な職務行為か不正な職務行為であるかは問わない
(3) 事前収賄罪(197条2項)
⇒ ×公務員⇒○公務員になろうとする者(時間前倒し類型)
ア 『公務員となったこと』の法的性格
● 客観的処罰条件説
○ 客観的構成要件要素説
∵ 行為当時公務員となっていない者については収賄罪としての違法性が完備されていないので公務員になった時点で類型的に違法性が高まるから
⇒ 公務員となることは,故意の認識対象となる
(4) 事後収賄罪(197条の3第3項)
⇒ ×公務員が⇒○公務員であった者が(時間修正型賄賂罪)
ア 事後収賄罪の制度趣旨
事後収賄罪は退職後に賄賂を収受するものであるが,在職中に請託を受け,職務上不正な行為までしているので,対価関係が明確であるため処罰する
イ 事後収賄罪の構成要件
① 在職中に請託を受けていること
② 在職中に職務上不正な行為をしていること
(5) 第三者供賄罪(197条の2)
⇒ ×公務員が賄賂を収受⇒○第三者に賄賂を供与させ(受取り相手修正型)
ア 第三者供賄罪の制度趣旨
公務員が賄賂を自己以外の第三者に供与させる場合を補足するものであり,受託収賄罪の脱法行為を禁止する点に趣旨がある
イ 第三者の定義
第三者とは,贈賄者,収賄者である公務員及びその共同正犯者以外の者をいい,狭義の共犯者も第三者に含まれる
(6) 加重収賄罪(197条の3第1項第2項)
⇒ 「不正行為」がプラスされると加重収賄罪となる
ア 加重収賄罪の制度趣旨
賄賂の対価として不正な職務行為が行われた場合を加重して処罰する点に趣旨がある。これは,現に不正な職務行為がなされたときは,公務の公正さの侵害は決定的となるからである
イ 加重収賄罪の構造
基本犯罪 | 基本行為 | 既遂 | |
1項(収賄後枉法罪) | 単純収賄,受託収賄,事前収賄,第三者供賄 | ①賄賂を収受⇒②不正な職務行為 | ②の時点 |
2項(枉法後収賄罪) | 197条・197条の2の罪(事前収賄を除く)のうち,過去(転職前を含む)の職務が不正な職務行為である場合を切り取った加重類型 | ①不正な職務行為⇒②賄賂を収受(②の時点で公務員でない場合は事後収賄を検討) | ②の時点 |
ウ 不正な職務行為の定義
積極的若しくは消極的行為によりその職務に違反する一切の行為をいい,公務員の裁量行為には裁量権の濫用が必要と解される
(7) あっせん収賄罪(197条の4)
⇒ ×その(公務員の)職務に関し⇒○あっせんをすること又はしたこと(職務行為修正型)
ア あっせん収賄罪の制度趣旨
公務員による他の公務員の職務行為へのあっせん行為を処罰するものであり,これは,公務員が事実上の影響力を行使して,他の公務員の所管事項についてあっせんし不正の利益を得る行為を禁圧しようとする点に趣旨がある
イ あっせんの定義
あっせんとは,他の公務員への紹介,仲介,働きかけ,依頼をいう。もっとも,あっせんというには,少なくとも公務員としての立場であっせんすることが必要であり,単なる私人としての行為はあっせんにあたらない
ウ 要件
① 請託
② あっせん先の公務員による不正な職務行為
*西田は,上記②の要件があるのでその処罰範囲が限定的にすぎるという
[1] 限定積極説に立つとしても,基本的な視座は,「公務も公務だというだけで業務と同程度の保護に値しないとはいえない」という点を根拠に基本的には業務として保護されるべきという点に設定されている。ただし,妨害を排除するための「強制力を行使する権力的公務」は,威力に対しては保護の必要性がないから,例外的に対象とならないという視点であると理解しておけば足りるといえよう。
[2] 本来,偽計とは人の意思に対する働きかけを内容とするものであるが,その要素は希薄化されるようになっているため,偽計と威力の区別の意味が失われている。
[3] あくまで抽象的危険犯の話しであることに留意せよ
[4] 前田370は,着手時期について,「媒介物への着火」があるか,「媒介物の焼損」があるかという観点から予備行為を区別しているように思われないでもない。媒介物への着火よりも前に実行の着手を認めるには,「点火しなくても自然に発火する危険性があるか」という観点から光をあてて限定的に解する方がよい。前田370は否定例ばかりが紹介されており,慎重に考える必要がある。その際,いわゆる早すぎる構成要件の実現の議論を参考に犯罪計画も考慮されるものであることも忘れるべきではない。
[5] 『焼損』とは,類型的に公共の危険を生じさせる程度に至った時点のことをいうものと考えられる。これを木造建築物について敷衍すると,独立して燃焼し,かつ,ある程度継続しうる状態となれば,『類型的に』公共の危険が発生すると理解しているものと考えられる。したがって,『類型』が異なれば独立燃焼説と異なる理解をする必要はないと解することができる。また,これとの関係で,具体的危険犯の『公共の危険の発生』の要件との区別を理解しておく必要がある。この点,焼損も『公共の危険の発生』もいずれも公共の危険の発生についてのメルクマールであることは同じである。だが,前者の判断は,類型的な公共の危険の発生の判断であるのに対して,後者の判断は,当該事案で具体的危険が発生したのかという判断となる。したがって,抽象的危険犯の『焼損』の該当性を判断するのにあたって,当該事案でしか問題とならないような具体的事実を考慮することはできないということになると思われる。ただ,あまりに抽象的な公共の危険しかない場合は,そもそも焼損がないとして既遂となることを否定するべきとも思われる。このような視点からすれば,抽象的危険犯の焼損の判断については,類型的判断しかできないわけであるが,その類型をやや具体的に行うということで妥当な結論が得られるのではないか。前田372が,判例が『ある程度の燃焼の継続』を要求することを強調するのも,判例の事案ではともかくとして,あまりに軽微な場合は焼損自体を否定する余地があるとの考えのもとと解される。
[6] 国井253は,「実務的には,建物の効用喪失の度合い,火の燃え上がり状態,焼損の程度―を総合して処罰に値する事案か否か判断」して訴追裁量権を行使するので,学説の対立は重要でないと指摘する。逆にいえば,効用喪失説,燃え上がり説,毀棄説にもそれなりの理由はあるということを表しているものとも考えられる。
[7] 『焼損』とは,類型的に公共の危険を生じさせる程度に至った時点のことをいうところ,難燃性の建造物との関係では,延焼の危険が発生する程度に酸化し高温となったことをいうと解する。なぜなら,難燃性の建造物の場合,なかなか独立燃焼に至らないのであるから,独立燃焼に至らない場合であっても火力による公共の危険の発生が類型的に生じることはあり得るところ,難燃性建物の場合は,放火客体の燃焼から現住建造物の一部が高温を発する変化を生じ,その範囲が広範囲に及んだ時点で延焼の危険が生じ,火災そのものの拡大の危険性が認められるので,類型的な公共の危険が発生したといえるからである。ここで注意しなければならないのは,あくまで火力による燃焼の危険性という観点から光を当てて考えないと類推解釈になってしまい罪刑法定主義に反するという点である。難燃性の建物について効用喪失説を採用するのは河上和雄説である。この説は,火力による燃焼を前提とせず,燃焼しなくても火力でコンクリート壁が崩落すればよいというのである。しかし,刑法が『焼損』という概念をとっている以上,建造物が火力により焼損することによって抽象的・具体的に公共の危険を生じさせるということが構成要件で予定されている。したがって,「火力⇒燃焼」という流れを意識しないで『燃焼』にあたるとすれば,罪刑法定主義に反すると解される。
[8] 案じるところ,前田372にいう「ある程度の継続性」とは,「重要部分が建造物全体に燃え移る危険のある程度に炎を上げて燃えた」という段階になって初めて「ある程度の継続性」が認められると解すべきであろう。前田説は,独立燃焼説の「ある程度の継続性」という部分を利用して重要部分燃焼開始説(燃え上がり説)的な理解をつなげているのではないかと推察される。
[9] 抽象的危険犯について『公共の危険の発生』が必要であるかについては,擬制説と危険発生必要説が対立している。この点,山口説が危険発生必要説を採っている。たしかに,判例も独立燃焼説の定義において燃焼のある程度の継続を求めるように,抽象的危険犯でもある程度,類型的な公共の危険の発生をメルクマールにしていることからして,『公共の危険の発生』を意識していることは疑いがないところである。この議論は,放火罪の解釈の全体的な指針になるということができるから,優れて理論的な問題にすぎないが若干の説明を加えよう。まず,この議論を理解するには,立法の構造を理解することが重要である。周知のとおり,現住建造物放火罪は抽象的危険犯である。つまり,放火され公共の危険が現実に生じなくても,その前段階である危険が生じた段階で処罰するという一種の事前規制的な側面がある。このような側面を持つ規律態様の場合は定義付け比較衡量が重要となる。つまり,あらかじめ抽象的に危険があるものとそうでないものに区別してそれを定義に反映させるという手法である。このような視点からみるとき,擬制説や危険発生説は同じことを異なる段階に着目して主張されるものにすぎないのである。すなわち,定義付けにあたり危険発生を考慮するのであるから,危険発生必要説が正当なのは当たり前であるが,定義付けの後は,具体的に危険が生じていようとなかろうと抽象的には危険が生じたと擬制されるから,擬制説も正当なのである。この点,山口説は,現住建造物放火罪の保護法益は,①公共の危険及び②建物内部者の保護にあることを明らかにした上で,そのいずれかが全く欠く場合には現住建造物放火罪は成立しないと主張している。結局,山口説の主張は,以上のような点を踏まえたうえで,108条の具体的な要件の解釈の定義付けに反映させようという主張にすぎないものと理解すべきであろう。例えば,危険発生必要説が問題とする事例は,Ⅰシーズンオフで閉められている別荘への放火やⅡ長期出張中の閉ざされた家屋への放火を問題としている。たしかに,このような場合は危険発生必要説の主張を踏まえて『現住性』を否定すべき場合が多いであろう。つまり,これが構成要件要素となり錯誤の問題が生じるから不当であるという井田説の主張は問題の本質を理解しておらず失当である。
[10] 当たり前であるが,住居を燃やすという単純ケースではなく,平安神宮の回廊部分を燃やすケースでは,その部分が住居として利用されているわけではない。他方,平安神宮は,その部分は無人でも回廊でつながった部分に現住建造部分の警備室があるから,その現住性の射程距離が放火された回廊部分にも及んでいるのかという点が問題となる。もし,非現住となれば,108条が否定され,109条1項の問題となり法定刑が一気に軽くなるので弁護人としては無視できない視点といえる。
[11] 機能的一体性という概念を利用すると,例えば,Xが非現住のAビルに放火したのに,機能的一体性があるBビルの現住性の射程距離を及ぼして現住建造物放火として処罰することが可能になるという問題点がある。もともと現住性の要件は,かなり抽象的な危険を取り込んでいるので,そのうえに機能的一体性という不明確な基準をとってその概念を拡張すると,処罰範囲が広がりすぎ罪刑法定主義からいって問題であるという問題意識がある。
[12] 延焼可能性を考慮するのは,仙台地判昭和58年3月28日(判タ500号232頁)の見解であるが,国井255は,「延焼の可能性を要件として考慮するのは,具体的危険性を考慮することであり,108条の罪質とも矛盾する」と批判している。
たしかに,108条の現住性を判断するにあたり,具体的危険を考慮することはできないが,本件の問題は,特殊な建造物の場合に一部分のみ現住性があるからといって,すべての部分を現住建造物として扱ってよいのかという問題意識に支えられている。したがって,現住性の射程距離がどこまで及ぶのかという点を考慮するのにあたって,延焼可能性を考慮するのもそれが一般的なものにとどまる限りは抽象的危険犯との罪質に矛盾があるとはいえないと考える。
なお,西田教授は,「建造物内部の人の生命・身体に対する抽象的危険が認められるからこそ,危険の抽象化が認められるのであるから,延焼可能性を考慮すべきか否かも抽象的危険犯であることの前提」として決定されなければならないものであり,抽象的危険犯であるから,延焼可能性を考慮すべきではないという主張は論理が逆転していると批判している。
[13] 西田281及び前田382は,いずれも認識不要説であるが,いずれも危険の発生についての予見可能性を要求して成立範囲を限定する見解を採用している点には注意が必要である(特に,前田総論97では,結果的加重犯について帰責に予見可能性が必要という見解を採っている)。
[14] この見解は,財産のみに侵害の危険が生じているのに放火罪の成立を認め,単なる器物損壊罪を超えて重く処罰する根拠は地域の平穏を害する点にある。そうだとすれば,『公共の危険』が発生したというには,地域の平穏を害する程度か否かを判断するべきとするものである。これは,「火力の大きさや周囲の状況からして,周辺の人が危惧感を覚える程度の規模かを基準とする見解」を客観化する方向で議論を進展させたものと考えられる。
[15] いわゆる110条の公共の危険の認識の要否について若干の補足的説明を加える。まず,本問における学説の問題意識は明確であり,Xは器物損壊罪の犯意しかないのであるから,建物以外放火罪の成立を認めるのは責任主義に反するという点にある。かかる主張は正しいものであり判例もこの点を無視したものと解するのは正当とは思われないのである。私は,この理論的対立の背景には,共同正犯の要件の理解の違いが反映しているものと考える。すなわち,判例の共同正犯の要件は,①共謀と②共謀者の1人の実行の着手である。そして,本件では,②は問題ないのであり,議論のフォーカスは共謀が認められるかである。共謀の中身は,Ⅰ犯意の成立とⅡ意思の連絡の2点から構成される。本件では,意思の連絡は問題ないであろう。そうすると,本件では,Xにいかなる犯意,すなわち,前構成要件的にいかなる犯罪をする意図があったかを明らかにする必要がある。本問では,XのA及びBに対する指示は,「人里離れた場所で燃やせ」という内容であるが,この点はさらに捜査を行うことにより犯意の中身を具体的に明らかにする必要があろう。すなわち,人里離れた場所であってもその中に住居が点在していることは珍しいことではないから,人里離れた場所が「公共の危険を発生させない場所」という意味であったかについてはさらなる吟味が必要であろう。しかも,本件被害者のメンバーDの家が「人里離れた場所」であれば,上記の指示が「公共の危険を発生させない場所」と解することは難しくなるように思われる。これら一切の事情を総合的に考察したうえで,Xの犯意が器物損壊罪のみかを判断し,建物以外放火罪を含まないものであったかについての具体的な検討が必要である。以上のような具体的検討を踏まえた結果,Xに認められる犯意は,器物損壊罪の限度でしかないということになれば,A及びBらのやったことは共謀の射程を超えており,A及びBの行為は,Xとの共謀に基づく行為と評価することができなくなることは十分考えられるといわなくてはならない。
この点,学説は,大塚431をみてみると分かるように犯意と故意の区別を付けていない。そもそもXは実行共同正犯ではないのであるから,実行の着手時の構成要件該当事実の認識・認容は問題にすることができないから,Xにかかる放火罪を帰責するのにあたって故意はそもそも不要なのである。しかるに,学説は,犯意と故意を混同し,共謀共同正犯を「故意の共同」と理解しているから,Xについて建物以外放火罪を否定するには,「公共の危険の認識」が欠けるから故意がないと説明するしかなくなっているのである。しかしながら,実務では共謀の射程外として処理をすればよいから,「公共の危険の認識」が必要であるとする実践的な意味はほとんどないと解されることになるといえよう。このような必要性について見てくると,「公共の危険の認識」が必要としなければ,責任主義に反するというような壮大な問題はほとんど生じないのであるから,判例が否定説を採るのも分からないではないといえよう。以上のとおりであって,学説の問題意識には極めて正しいものがあるが,それは「公共の危険の認識」を要求しなくても解決可能なのである。なお,最判昭和60年3月28日刑集39巻2号75頁の事案は,Xは,「単車を実際に燃やせ」と述べた事案であり,「人里離れたところで燃やせ」とは一言もいっていないという事案であるから,仮に,「公共の危険の発生の認識」を必要としたところで,本件Xについて建物以外放火罪が成立するのは疑いのなかった事案といえよう。なお,最決昭和59年4月12日刑集38巻6号2107頁における谷口裁判官の意見は,「私は,刑法110条1項の罪の成立には公共の危険の発生の認識を必要とすると考える」と判旨に反対している。その理由の要旨は次のような点にある。すなわち,110条1項の罪の基本的行為は,もともと放火罪の保護法益である公共の危険に対する侵害とはとらえられていないものである。そうすると,その行為が公共の危険に対する犯罪である放火罪とされる契機は,当該行為によって具体的に公共の危険を生じさせる点にある。そこで,110条1項は,「公共の危険を生じさせた」ことが要件とされているのである。したがって,その要件を具備することによって初めてある行為が犯罪となる場合,その要件の存在を認識することが故意の内容となることは責任主義の原則上むしろ当然のことである,というのである。
[16]例えば,Xが交通違反のために交通反則切符を切られた場合において,Xがあらかじめ「困ったときは俺の名前を使ってよい」と言われているYの名前を書いた場合を考えてみる。そうすると,まず,切符にはYの名前が記載されているので,Yが名義人であることは明らかと考えられる。問題は,作成者は誰かという問題である。この点,純粋に観念説を貫けば,Yは切符に名前を書くことについて承諾をしているのであるから,作成者はYということになる。したがって,この場合に私文書偽造罪は成立しないということになる。しかしながら,観念説はその文書について責任を持つのが社長であるから社長が作成者になるという論法であった。
そうだとすれば,交通反則切符の内容が正しいことについてYが責任を引き受ける立場にあるとはいえない。なぜなら,Yが交通違反を現実にしたわけではないので,その内容が正しいか否かはYが知りうる立場にはなく,したがって,Yが文書の内容について責任を取るということはあり得ない。そうすると,結局,文書の内容について責任を取るものがいなくなり,文書の公共的信用が失われていると解されるからである。このような視点から,観念説の中でも効果帰属を問題とする規範的意思説が有力となっている。規範的意思説の手順は,①形式的に観念説によるとどのような帰結となるかを確認したうえで,②実質的にその者が文書の内容について責任を持つものであるかを文書の性質にかんがみ社会通念上判断し,これを是認する場合にのみかかる意思の効果帰属を認める―という内容であると解される。そうすると,本問に即すると,上記のとおり文書の性質に照らすと,本問の交通反則切符は,本人以外は作成することが許されないものであるから,かかる文書について社会通念上,Yは責任を取るものとはいえないので,仮にYがXに対して自己の名義を交通反則切符に使うことを許していても,かかる意思を当該文書に効果を帰属させることはできず,したがって,当該文書はYの意思で作成されたとすることはできない―とするものと考えられる。
[17] 作成者の判断基準については,難解であるので若干の補足説明を行うこととする。
まず,上記の争いは観念説内部の争いであることを押さえておく必要がある。次に,観念説の定義を確認すると,作成者とは,「当該文書がその意思に基づいて作成されたところの者」をいうと定義される。問題とされるのは,『その意思』とは,いかなる意思のことをいうかという問題意識である。この点については,事実的意思説と効果帰属の意思ととらえる見解(規範的意思説)が対立している。前者は,いわゆる予備校通説である。しかし予備校のテキストに縷々指摘がなされるように,もし事実的意思ととらえると,名義人が承諾を与えていれば文書の性質如何にかかわらず『偽造』にあたらないということになりかねないという不都合性を抱えることになる。
これに対して,効果帰属の意思を問題とすれば,上記の事実的意思説において不都合となる事例においては,「かかる意思の効果帰属は認められない」と説明することができるのであるから,上記の不都合性を簡単に解消することができるという点で魅力的な見解といえる。問題は,「効果帰属させることができる意思か否か」をどのような基準で判断するのかという点にシフトする。この点については,法的効果帰属説(古典的な規範的意思説)と文書の内容について責任を有することを保証する地位にあるかを判断する見解(新しい規範的意思説)に分かれる。
学説の流れについて説明すると,そもそも,事実的意思説と規範的意思説の対立が尖鋭化したとき,規範的意思説には古典的な規範的意思説しか存在していなかった。ところが,古典的な規範的意思説は,効果を帰属させるか否かの要件を法的効果に求めていたので次のような批判を受けた。例えば,①Xが公序良俗に違反する文書を作成した場合(A名義),かかる法的効果は民法90条により否定されるから,どのみちAに効果帰属する余地はなく,したがって偽造ではないとされかねないということ,②XはYに対して金銭を貸し付けたが借用書を徴さなかったので,Y名義の借用書を偽造したという場合,名義人Yには文書の内容通りの法律上の効果があるので『偽造』を否定せざるを得ない―のは不都合であると批判されたのである。もっとも,平野龍一説は,法律上の観点のみではなく社会通念上の観点からも判断されるとしていたので上記の批判が的を射たものとはいえないものと考えるが,「法的に有効かという議論と文書の真正」は,関係ないという厳しい批判を受けて,事実的意思説と古典的な規範的意思説との対立は,事実的意思説に軍配が上がったのである。ところが,規範的意思説に対する批判は,効果帰属の基準を「法的効果」に求めた点にあった。すなわち,前田439も,「この考え方は,意思の主体を実質的に解することによりかなり合理的な結論が得られるが,・・・偽造の成否は文書の事実上の意味・機能なども重要で「法的効果」のみを重視しすぎるのは妥当ではない」という批判をしていたにすぎない。そこで,この点を改良すればよいという発想から新しい規範的意思説が登場することになったというわけである(山口説)。
[18] コピーが,『文書』(159条1項)にあたるかは,条文の文言に関わるものであるから,罪刑法定主義からくる限界があるということを意識する必要がある。文書とは,名義人が直接的に,その意思又は観念を表示し又は表示させたものをいう(西田330)。このような西田説の定義からすれば,コピーは「そのような内容の原本が存在する」という観念を表示したものといえるが,それは原本それ自体の意思又は観念とは異なるということになる。そして,コピーに表示される意思又は観念を上記のように解するとなれば,認証文言がない限りコピーの名義人は誰か分からないということになる。そうすると,名義人が定かでない以上,文書性が否定される。しかるに,これを『文書』に含めるというのは罪刑法定主義に反するというのが主張の骨子である。
[19] 判例の『文書』概念の実質化がなぜ罪刑法定主義に反しないかについて若干の補足を付すこととする。積極説と消極説の対立の根本は,次の2点が複雑に絡み合って生じている。すなわち,①原本についての理解の差と②コピーの社会的機能と信用性の存在という社会的実態に対する評価の違い―である。まず,①について検討してみるのに,消極説の文書の定義をみると,「文書とは,名義人が直接的に,その意思又は観念を表示し,又は,表示させたものをいう」とされるのに対して,積極説では,「文書とは,文字又はこれに代わるべき符合を用い,ある程度持続的に尊属することのできる状態で,意思又は観念の表示をしたものをいう」となり,突き詰めると積極説の定義は,「文書とは,意思又は観念の表示をしたものをいう」となると考えられる。この2点を比較してみると,消極説の定義は,「名義人が直接的に」という要件が定義に盛り込まれている。これは,他人による写しは『文書』にはあたらないということを示す趣旨と解される。これに対して,積極説の定義をみてみると,文字が持続状態であるかを問題とするものの,突き詰めると,「表示されている意思の主体は誰か」という観点を中心に光をあてて議論するものと解される。思うに,文書の定義は判例の積極説の定義が正しいと解する。なぜなら,消極説にいう「名義人が直接的に」という部分は,写しの場合は写しの作成者の意思又は観念が入り込むから,原本の名義人の意思又は観念を表示したものとは評価することはできないという『写しの理論』という特別な理論を積極説の定義に投影して出された結論を消極説は定義の中に無断で盛り込んでしまっているからである。そうすると,基本的には判例の準拠する消極説の定義,すなわち,「文書とは,意思又は観念を表示したものをいう」という定義を前提に光をあてて考えていくということが重要と解される。
次に,②の社会的実態に対する評価の違いが存在するという点である。積極説は,コピーは原本と同様の社会的機能を有するという前提に立ち,消極説はそのような社会的機能を有すること自体に懐疑的であるといえる。ところで,罪刑法定主義について,文言を解釈するにあたり慣習を考慮することは罪刑法定主義に反しないことは基本書などで指摘されている知識である。そうすると,慣習でなくとも社会的実態を考慮に入れて『文書』という文言を解釈することは何ら罪刑法定主義に反するものではないといわなくてはならない。以上を前提にコピーが「文書」にあたるかを判断する。
この点,前田443は興味深い指摘をしている。すなわち,「写しが原本の存在を証明するものにすぎないと認識されていた時期には,いかにコピーが正確で証明力が強くても原本の意思内容そのものを表示するものではないから,文書性を否定することに説得力があった」というのである。すなわち,履歴書などを想定すると分かりやすいが,最初は企業に対して履歴書のファックスし,面接当日に履歴書の原本を持参することが求められることがある。そうすると,コピー自体の提出が求められたとしても,その後に何らかの手続で原本の確認が予定されていることが多いといえる。このような社会的実態をみると,「コピーでは証明力が十分でないから原本を現実に確認しておく」という社会的な認識が読み取れるということになる。これを消極説の『文書』の定義にあてはめてみると,コピー文書に表示されているのは,「コピー文書と同じ内容の原本である履歴書が存在します」という観念となる。そうだとすれば,原本の内容である「私は○○と申しまして,○×大学卒業の・・・」という原本の観念がコピー文書に表示されているわけではないと解するのである。そうだとすれば,「コピー文書の名義人は原本の名義人ではない」という命題が生じることとなり,ならば「名義人は誰か」を問うと,「分からない」という結論となる。しかるところ,「責任主体である名義人の表示がない文書は信用性の度合いも低く刑法的保護に値しない」という判例も認める命題につなげられ,コピー文書は「文書としての刑法的保護に値しない」という結論となる。そして,このような見解を採ると,「コピーに社会的機能と信用性」がいくら認められても,そもそも原本の名義人の観念を表示するものではないから,『文書』にあたらない以上,それを根拠に文書性を認めることは罪刑法定主義に反するという批判が成り立つことになるのである。以上のように消極説は,前田443ですら,論理的で成り立ちうる見解と認めているのであって論理構成に誤りがあるのではない。問題の帰すうを決めるのは,論理構成の問題ではなく,上記で述べた消極説が前提とする文書の定義にどのようにあてはめるかという問題であり,その際に,「コピー文書に対する社会的機能と信用性」という社会的実態をどのように評価し,それをあてはめに反映させるかという違いなのである。
次に,積極説の筋の流れを確認してみよう。前田443は,過去の社会的実態と現在の社会的実態を区別し,現在は,「コピーは,単に原本が他に存在することを証明することを超えて,原本の意思内容を証明する役割を担っている・・・コピーの利用の拡大は,認証文言付の謄本を減少させ,細工しやすいコピーの文書としての刑法による保護をますます要請するようになってしまった」という社会的実態があると指摘している。なるほど,たしかに,今日では,社会生活上,書類の提出が求められる場合において「コピーを提出すれば足ります」と言われることもある。すなわち,常に原本の確認が後で予定されているわけではなくこれが省略されることも頻繁にみられると考えられます。このような社会的実態の認識を前提とすると,コピー文書に表示されている観念は,消極説のいうように,「コピー文書と同じ内容の原本である履歴書が存在します」という観念ではなく,原本の名義人の観念を直接表示し,これを直接的に保有伝達するものとなる。すなわち,コピー文書の観念は,「私は○○と申しまして,○×大学卒業の・・・」という原本の観念ということになるのである。このような理解を前提にすれば,コピー文書が『文書』にあたるということは消極説の定義を前提にする限り何の問題もないということになる。これは,『文書』を解釈するにあたって,社会的実態を考慮したというのにすぎず,類推解釈にあたるという主張は前提を欠き失当ということになるであろう。
[20] 例えば,Xは,Aの代理人ではないにもかかわらず,勝手にAの代理人と名乗り,Yとの間にYを借主とする不動産賃貸借契約を結び,行使の目的をもって,「A代理人X」という名義で契約書を結んだ場合で検討してみることにする。そもそも,文書偽造罪の処罰根拠は,文書の内容を保証しない者が文書を作成した場合,かかる文書は証拠として用いることができないという点に求められる。そうすると,本件名義の文書についてみると,その文書の内容について保証し責任を有するのは,その法的効果の帰属主体がAであることに照らすと,責任主体はAであると解される。そうすると,名義人はAとなるにもかかわらず,作成者はXというのであるから,したがって,名義人と作成者の人格の同一性が偽られており,『偽造』にあたるものと解すべきことになる。
[21] 若干の補足コメントを付すこととする。山口説のように責任主体か否かに光をあてて考えていくと,『偽造』になるか否かのポイントは,突き詰めると「代理人が持っている権限の範囲」に関わってくる。すなわち,代理人が代理権を持っている部分については,その文書の公共的信用の基礎の一部となっていると解されることが多くなるわけである。そうすると,脚注5の設問のようにまったく代理権がなければ偽造になることは明らかである(すなわち,その部分は公共的信用の基礎とはならないのでその結果,名義人はAになるから)が,例えば,Xに与えられた権限の幅が広くなれば広くなるほど権限の濫用ということになる。そうなれば,Xの代理権も「公共的信用の基礎の一部」となるから,「A代理人X」が名義人となり,現実にXも代理権を持っていれば文書偽造罪は成立しない(背任罪の成否を検討することになる)。
[22] この判決についても,山口説からよく説明できる。ジュネーブ条約に基づく国際運転免許証の発給権限を有しない国際旅行連盟という実在の団体名義で国際運転免許証に酷似した文書を作成した事案である。本件文書の内容について保証し責任を持つ者を考えてみる。そもそも,当該文書の公共的信用の基礎となっているのは,「発給権限を有していること」という代理人名義と解される。本件の免許証やパスポートの場合,当該文書に記載されている内容ではなくその文書の存在自体が重要であるという特色がある。そうすると,その文書の存在自体が本物であればその内容は特に問題でないところ,本物の文書を発行できるのは代理権を持っている機関に限られる。そうすると,国際旅行連盟という団体が発行したか否かは重要ではなく,発行権限があるかという点が公共的信用の基礎となる。とすれば,かかる文書の内容について保証し責任を持つことができるのは,「ジュネーブ条約による国際運転免許証の発給権限を有する国際旅行連盟」に限られるということになる。
[23] 例えば,見栄をはるために,結婚式への出席通知にAが「B銀行支店長A」と署名をした場合には私文書偽造罪の成立を否定することになるのが多数であるが,招待側としては支店長という肩書きを持つ者が出席をすることに意義を認めているときは,私文書偽造罪が成立しかねないという問題点がある。
[24] この点について若干の補足を付すこととする。診断書とは,医師が当該患者についてどのような病気に罹患しているかという事実を証明する文書であり,診断書は公的・私的な保険給付の申請の前提とされ,さまざまな権利義務に関する事実の証明の前提となるものであり,基本的には医師という社会的地位にある者が診断することによって,その患者が当該病気に罹患することが強く証明されるという関係にある。このような診断書の社会的機能に照らすと,当該診断書の公共的信用は,医師という資格・権限を有するかはともかくとしても,医学に優れた知見を有する者による作成が予定されているということができる。したがって,当該文書の内容について保証し責任を持つことができる地位にある者も上記の者に限られると解する。本件についてみると,Xは長年にわたり堂々と病院を構えていたというのであり,相当の医学的知識を有しているものと認められる。そうだとすれば,Xは医学に優れた知見を有する者ということができるので,当該文書の内容について保証し責任を持つことができるものと解される。したがって,Xが本件診断書を作成したとしても処罰に値するほどの文書に対する公共的信用が害されたとは評価することはできない。また,Xは,病院の所在地や電話番号も記入しておりことさらに人格の同一性を偽るというような事情もない。してみると,本件は単なる肩書きの冒用の事例とみることができるのであって,『偽造』にあたらないものと解される。
[25] この論点について,大谷454や前田447は,文書の特殊性により有形偽造を基礎付けようとするが,どうも分かりにくい。この点,作成者の判断基準について規範的意思説を採用するとその説明は容易になる。すなわち,規範的意思説からは,一定の文書作成が事実としてある者の承諾に基づいていても,規範的見地からその者が当該文書について責任を引き受ける余地のない場合は承諾者を作成者と認める余地はなく,したがって,偽造の成立を肯定できると解されるのである。この点について大塚414は,前田説の論拠が要するにファジイであると批判しつつも,「そもそも,名義人の承諾のもとで作成された文書が偽造文書とならないのは,意思・観念の表示を行ったことについて責任を名義人が引き受けるから」と解すべきである。したがって,「交通原票の供述書のように,名義人が承諾を与えても,そのような責任が警察官により交通違反者として現認されたXから名義人Yに転換されることはありえない」と指摘して,「他人Y名義での作成は責任の所在を偽るもの」であるから,『偽造』にあたると指摘する。この点について私も,大塚414と同様に解すべきものと考える。このように解すると,最決平成15年10月6日にも整合するように思われる。敷衍すると,本件文書の公共的信用とは,「現認された違反者が自己の真正の名前を書くこと」により構成されていると解される。したがって,本件文書について保証をすることができるのは,まさに現認されたXのみであって,Yがこれを保証する余地はないということになる。そうだとすれば,本件文書の名義人は,Xに固定されているところ,Xは「名義人Y」としたのであるから,名義人Y=作成者Xということになり結局人格の同一性を偽っていると評価することができるものと思われる。この点,国井283は,前田447と同様の説明をするものであり,その理由付けは相当とは言いがたいが,注目に値するのは,承諾をしていても偽造の対象となりうるのは,「公文書の特質を有する私文書」に限られると指摘している点である。たしかに,そのような特質を有する文書は,文書の公共的信用は,自署性によって担保されており,本人以外による記載が予定されている特別の事情のない限り,その保証をすることはできないと考えられる。特段,国井283のように,公文書の特質を有するものに限ると考える理論的根拠はないと思われるが,実際上はそれらの文書に限られることが多いように思われる(明治大学の答案はどうなるのかという問題はあるが)。結局,国井283の結論は合理性を有するものとして首肯できる。
[26] 調査官解説は,判例の定義は広きに失するものであり,「法律的にも何らかの意味がある社会生活の重要な利害に関係のある事実を証明しうる文書に限られる」という見解について,事実証明に関する文書は,(法的関係である)権利・義務に関する文書以外をいうのであるから,法律上の関係に限る必要はないとしつつ,判例の定式について,重要な私文書を「実社会生活に交渉を有する事項を証明するに足る文書」として限定したものであり,学説との間に具体的適用の差はないと指摘し問題は具体的適用の仕方にあると主張する。
[27] 山口459は,「なぜ,単なる『出願者A』ではなく,実際に『試験場で受験したA』が作成名義人になるかが問題である。これは,そうした属性を備えない者には,文書の性質上,当該文書における意思・観念の表示を帰属させることができない(その者に対する意思・観念の表示の証拠として使用することができない)ことと同じであり,むしろ,このことこそが私文書偽造を肯定する実体的根拠と解される」とする。
[28] 最判昭和59年2月17日刑集38巻3号336頁について西田教授の指摘が参考になるので引用するのに,「たしかに,本件文書を手がかりにして入国管理官は『乙こと甲』に事実上到達しうるであろう。しかし,この文書から認識される名義人は出入国管理を簡易迅速に行うという本件文書の性質や法令の趣旨から判断して,『適法な在留資格を有する』という書かれざる資格・属性を有する者なのである。その意味で,そこには判例のいうような人格の同一性の偽りがある」と指摘する。このような見解には,有形偽造と無形偽造の限界を曖昧にさせ,罪刑法定主義の観点から問題であるという批判がある(大塚423)。
[29] 難しい問題であるが,山口説の問題点が現れているともいえよう。つまり,市文書偽造罪の成立が利用目的との間で相対的に決まってくるということであれば,利用目的をどのように設定するかによってその成否が左右されることになる。この点,ホテルのゲスト・カードについては,たしかに,社会的実態として本人確認を徹底して行っているというわけではない。そうすると,ゲスト・カードが一般論として,事後的な宿泊代金の請求という目的とために用いられているというわけではないように思われる。そうすると,ゲスト・カードの文書の公共的信用は,宿泊者の特定という目的にすぎないということであれば,その宿泊関係の中では当事者を特定することができれば,人格の同一性を偽るということにはならないと思われる。ただし,このように解することができるか疑問がないではない。すなわち,この手のゲスト・カードの記載は,一般的に宿泊代金の請求に用いる可能性を有するものであると考えることもできよう。山口説は,そのような成立を肯定してはならないというが,成立を肯定してはならない理由が明確ではなく,処罰範囲が広がりすぎるように思われる。
[30] 単純収賄罪を念頭に,少し賄賂罪の構造について敷衍して検討してみよう。賄賂罪について検討する手順としては,まず,①いかなる賄賂類型を問題にするかを特定してみる必要がある。その際,一つのメルクマールは,公務員が不正行為をしているか否かに光をあてて考えるべきであろう。そして,不正行為をしていないのであれば,単純収賄罪を念頭に次は請託があるか(受託収賄罪)という点を検討する流れをとるべきであろう。これに対して,不正行為をしている場合はその時期を見極めて収賄後枉法罪か枉法後収賄罪かを検討するべきであろう。この2つが基本的な処理の手順であり,その他の類型はあくまでも特殊なバリエーションにすぎないからその都度検討していけば足りるであろう。次に,ここでは,収賄後枉法罪(197条の3第1項)を例に検討していこう。
次に,特定すべきなのは,②賄賂として疑いがもたれる利益は何かという点を確定するということである。賄賂の目的物は広く含みうるから,それが賄賂にあたるかを悩むのではなく,検討の対象を明確にする必要があるからである。ここでは,「現金50万円」が利益にあたるとしよう。続いて,検討するべきであるのは,③その賄賂がいかなる公務員の職務行為に向けられているものかを特定することである。ここでは,「指導監督についての不正な便宜」としよう。以上の①から③までの手順が賄賂罪を検討するにあたっての前提問題である。答案のうえでは,①から③までを踏まえて論点を展開しなければ,不自然な内容となるおそれがあるであろう。前提問題を踏まえて,最後に検討するべきなのが,④利益と職務行為との間に対価関係が認められるかという点である。おそらく賄賂罪の論点として問われることの実質は,かかる対価関係が存在するかという問いに関連していることがほとんどと考えられる。そこで,最後に利益と職務行為との間の対価関係の有無を検討していくということになる。そして,対価関係が認められるかは,職務の公正とそれに対する社会一般の信頼が侵されるかという観点から認められるということになる。したがって,一般市民の信頼が害されれば対価関係も認められるという関係にある。ただ,ここで気をつけないといけないのが,「本音と建前」である。このような考え方に対して,西田455は,「職務の公正さを疑われるから職務行為があるのではなく,職務関連性があるから職務の公正さが疑われるというべき」と先述のような考え方を批判している。西田説は,「職務の公正さが疑われる場合とは,国民が疑念を抱くとき」とするのであるから,結局,両者の違いは説明の違いにすぎないと思われるが,有名な学者がそのように指摘するのであるから,答案で上記のような見解に依拠するのは相当とはいえないであろう。したがって,上記④の手順を採る場合においては,頭の中の思考としては,「利益と職務行為との間に対価関係が存在するか」という観点から検討を行い,答案上は,「『職務に関し』といえるか,すなわち,賄賂の職務関連性が認められるかが問題となる」と問題提起をした方が無難であろう。ただ,検討の順序としては,思考レベルでは,上記①から④の流れを辿った方が明らかに分かりやすいであろう。
具体的に検討しよう。大塚515の例(国立大学経理部長のXは,業者のAが将来Xより物品納入につき便宜を受けることを期待して供与した現金50万円をその情を察知しながら貰い受けた。当時,同種業者からこの国立大学に納入すべき物品はなく,かつ,新規注文が早期に予期される状況でもなかった)をもとに検討する。
まず,①の手順からみると,Xは,未だ不正な職務行為をしていないことが明らかである。したがって,加重収賄を検討する必要はなく,単純収賄を検討していけば足りるということになるであろう。問題は,「請託」があるから受託収賄といえるかであろう。おそらくこの問題では,「請託」の有無が一つの重要な論点となっていると考えられる。請託とは,公務員に対して一定の職務行為を行うことを依頼することをいうから,本件の物品納入についての便宜も一定の職務行為を行うといえるであろうから,請託があるといえよう。請託は,黙示的であっても構わず,ただ,公務員の明示又は黙示の承諾が必要であるが,本件との関係では問題ないと思われる。したがって,設定されるべき構成要件は受託収賄ということになろう。
次の②の手順は,利益を特定することであるが,「現金50万円」であることが明らかであろう。さらに③の手順に移ると,賄賂が向けられているのは,「Xの物品納入についての決定権限」ととらえることができる。この時点において,Xの具体的職務権限に含まれるかを検討するべきであろう。気をつける必要があるのは,学説がいうのとは異なり,実務上は公務員の場合職務権限の分配というのは法令によって決定されているのであるから,実際上はその職務権限というのは意外と広範なことがあるということに留意すべきであろう。ともあれ,本件のXは「経理部長」という職にあるわけであるが,この問題では,経理部長が物品納入の権限を持つことは当然の前提とされている。したがって,上記賄賂が向けられている「Xの物品納入についての決定権限」は,Xの具体的職務権限ということになるので,Xの職務行為と言い切ってしまってよいのであろう。最後の④の手順に移ろう。ここでの問題は,やはり対価関係の有無ととらえられる。すなわち,現時点においてXは職務権限を有するにしても実際上物品を納入する予定がまったくない状態なのであるから,権限を行使する機会はとりあえずないということができる。そうすると,対価関係のメルクマールを職務の公正のみで理解すると,「まだ職務の公正は侵されていない」ので対価関係があるか疑問が生じるであろう。そこで,このような問題意識を答案上で述べて,「『職務に関して』,すなわち,職務関連性は認められるか」という問題提起をしたうえで自己の見解を述べればよいということになろう。この点,この問題意識は純粋性説から生じるものであることを踏まえておく必要があるであろう。つまり,信頼保護説からいけば,「将来の職務の公正を疑わせ,ひいては,その公務員の現在の職務の公正を疑わせる」ということになるのであるから,信頼は害されるのであるから,対価関係を認めるのに何の疑問も感じない事例ということができよう(ただ,これは将来発注するという蓋然性が認められることが明らかだから)。したがって,保護法益論を展開して,信頼が害されるということを具体的に論じればこの論点はクリアすることができるものと解される。ただし,あくまで「将来の職務」との対価関係が問題になっていることに気付いていなければ減点は免れないであろうから,一言指摘することは必須であると考えられよう。
[31] 信頼保護説からも,例えば,郵便配達員への心づけのように当該公務が賄賂によって左右される余地のない職務である場合には,公務に対する社会一般の信頼が損なわれることはないのであるから,賄賂罪にいう『職務』にあたらないと解することが可能となる。
[32] 賄賂とは職務行為と対価関係のある利益のことをいうのであるから,利益と職務行為との間に対価関係がない場合は,『賄賂』にあたらないと解すべきである。この点,判例(最判昭和50年4月24日判事774号119頁)は,「学級担任の教諭として行うべき教育指導の職務行為そのものに関する対価的給付であると断じるには,・・・なお合理的な疑が存する」として賄賂性を否定している。この点,学説は,利益と職務行為との間に対価関係がある場合であっても社会儀礼の範囲内であれば賄賂性を否定するのに対して,判例は,あくまでも社交儀礼としての目的に基づいているのであるから,その利益と職務行為との間に対価関係があるとはいえないという論理を展開していることに注意する必要がある。西田454は,社交儀礼の場合は対価性が希釈化される結果賄賂性が失われるとするが,この判例をよく説明していると思われる。
[33] 最決平成17年の調査官のコメントでは,一般的職務権限の理論の射程距離についても言及されている。すなわち,一般的職務権限の理論の射程距離は原則として,『課』で認めるものが多いとしつつ,「警察官の職務の特殊性にかんがみると,警察官の犯罪捜査に関する一般的職務権限の範囲を『課』単位で制限する必要はない」と説明されている。調査官は,各警察法などの法規に照らすと,警視庁の警察官は,どの警察署に所属しているかにかかわらず,東京都内において犯罪捜査に当たることが要求されており,一般的職務権限は東京都全域に及んでいるという評価を加えており,これが「警察官の職務の特殊性」の内容となっていると解される。だが,調査官も反論を加えているように,地域課の「窓口的存在」にすぎない警察官が刑事課の捜査について公務を左右できる可能性があるとはいえないと考えられる。なお,西田教授が批判する団藤132の職務か否かは,「公務の公正が疑われるか」が基準となるというメルクマールで検討すると,調査官は,「一般市民は,警察官の犯罪捜査に関する職務権限について,警察署の管轄区域や警察官の所属部局の違いを強く意識しているとは思えない」ので,公務の公正が疑われるので職務にあたると判断しているようにも思われる。
[34] 分かりにくいところであると思われるので若干の補足的説明を加えることとする。この論点を理解するためには,過去の職務に対する収賄罪を否定するか否かという論点を検討する必要がある。この点,過去の職務に対する収賄罪を否定する見解がある。たしかに,純粋性説に考えると,すでに職務行為が行われているのであるから,その後に金銭のやり取りがあったとしても,職務行為の公正及びその危険が生じる余地がないということになる。そうだとすれば,過去の職務は『職務』ではないと解することになる。これに対して,判例は,過去に対する賄賂罪の成立を認めている。ここで重要なのは,判例がどのような論理でこれを認めているかという点である。その論拠を考えてみると,過去の職務と利益とが対価関係に立つことによって,過去の職務の公正が害され,しかも現在担当している職務の公正についての社会一般の信頼を害するという点にある。これを転職後の収賄に応用すると,XがP県係長時代に不正な便宜を図った場合において,転職後に賄賂を収受したとしても,一般市民はXが担当したP県係長時代の職務の公正,ひいては,現在,Xが担当している住宅供給公社における職務の公正さを疑うことになる。このように考えると,過去の職務に対する収賄を積極に解する根拠が転職後の収賄にも妥当するものであるから,転職前の職務も『職務』にあたると解してよいと考えられる。この点,西田教授は,「一般的職務権限が同一だからといって,過去の職務が現在の職務に置き換わるわけではない」と指摘されている。西田教授のように,信頼保護説を前提に考えると,Xが現在担当している住宅供給公社における職務の信頼も害されるのであるから,Xの後職の職務内容が前職と同じか否かで区別する意味はないということになりやすい。そして,いずれにせよ,転職前の不正行為はすでに,「過去の職務」なのであるから,たとえ,一般的職務権限が前職と後職で同じであるからといって前職が「過去の職務」ではなく,「現在の職務」に置き換わるという効果があるわけではないという趣旨の説明をされているものと解される。結局,Xが可罰的であるか否かは,過去の職務と利益との間に処罰に値する程の対価関係が存在するか,すなわち,国民の職務に対する信頼を害するという関係があるか―という観点が重要なのであって,転職後の職務が一般的職務権限の範囲内におさまっているかどうかは本質的な問題ではないということと思われる。このような対価関係が認められるのであれば,Xに収賄罪の成立を否定する実質的理由はないといえるのである。
[35] なお,この論点について純粋性説の観点から考えると,収受に先行する過去の職務行為について職務の公正さが侵されることはないし,その危険があるかも少なくとも行われたその行為のみにフォーカスをしぼると否定せざるを得ない。したがって,過去の職務に対する収賄は否定されるということになると思われる。このような観点から,転職後の収賄事例をみると,もはや収賄罪の射程距離の範囲を超えているので,事後収賄罪の成立を検討する他はないということになる。そうだとすれば,事後収賄罪が成立するかを検討するということになると思われる。もっとも,純粋性説を前提とすれば,Xの所為は過去の職務なのであるから,そもそも収賄罪が成立する余地がないものであるから,それが,一般的職務権限が同一であるかどうか問題にするのもおかしいということになるであろう。したがって,一般的職務権限の範囲内か否かで単純収賄と事後収賄を振り分けるという見解は,理論的には,あまり一貫した見解とはいえないものと解される。
[36] 国井375も,公務員が職務行為に仮託して自己の職務と関係のない事項について人を恐喝して財物を交付させたときは,職務の公正さについての社会の信頼を害することにはならないのであるから,賄賂罪は成立させるべきではないとして,信頼保護説の立場からも収賄罪の成立を否定している。
[37] 国井375は,警察官甲が逮捕の意思も併せて有しており,かつ,客観的にみても,窃盗の容疑があるのにそれを見逃して財布を受け取る行為は,職務の公正さについての社会の信頼を害することになるので恐喝罪とは別に,収賄罪の成立を認めるべきでありとする。