弁護士コラム

理念

学校つらないなら無理しないで。

夏休み明けの9月1日、こどもの自殺が例年急増する時期でもある。

 

以前、学校にいけない人は図書館へと司書の投稿が賛否両論があった。反対した人は、いじめられたことのない人の議論である。

 

こどもの立場にたって考えると、新学期の登校は「新たな苦しみの始まり」の序章にすぎないのだろうか。

 

8月27日付中日新聞は電話やネットでの相談という。

しかし、電話やネットなどのツールで「学校にいきたくない」「適応障害」「いじめ」「アカデミックハラスメント」の問題が本気でなくなると思っているのか。

であれば苦労はない。

無責任なことばかり書くのであれば、だった広い中日新聞別館でも開放してあげたらどうか、それでこそ地元の社会の公器たりえる。それとも心はもはや東京新聞か。

 

久しぶりにチャイコフスキー5番第4楽章を聴いた。勝者の行進という人もいれば、敗者の行進曲とたとえる人もいる。敗者の行進といえども堂々としている。負けたっていいじゃん、勝負を挑むことが尊いのだ、と思う。

 

私も、小学生は分かりやすいいじめに遭っていたし、中学生はわかりにくい?いじめに遭っていた。わかりにくいいじめを具体的に説明するのは難しい。ずっと誰かの助けを求めていたが、ついに高校までは、他力本願的な白馬の王子はあらわれなかった。あらゆる意味で。

 

自分の経験でいえば、小さな成功体験の積み重ねが自分に自信を与えてくれると思う。別に周りが何をいっても、分からなければ中学生2年生でも1年生の教科書を復習していいのだと思う。個人的に思うのは、名古屋は感情労働が盛んな街ではない。立命館にいったとき、今でも「中学の先生となかいいでー」「高校の先生となかいいでー」という学生の多いことだった。名古屋では全く聴かない話しだ。結局、わいせつ容疑の元講師の記事も同時に目がみたが、私にとって中学校は別にいかなくても人生というものにプラスになってもマイナスにもならなかったと思う。

 

答えを求めてあせる必要はない。人生は君たちにとって長い。そして先のみえないゴールがプラスとなりマイナスとなり、浮き沈みがあるのもまた人生だと思う。私の母親は教師であったが、あの人が教師であったということで多くの人が泣いたことだろう。人間は、完全ではないし、教師もまた新卒で入れば世間知らずの人ばかりのべーべちゃんなのだ。

 

一例を挙げると、いま、わいせつ教員を被告に愛知県に裁判をしている。愛知県は①学校の外だからわいせつなことをしても責任がない、②自由恋愛ーなど馬鹿な主張を繰り返している。被告名は愛知県、代理人は当然大村知事である。そして、わいせつな教員の窓口として、こともあろうに、学校の窓口や中日新聞が載せている窓口があるから信義則違反もないのだ、という。学校外なら教員が生徒にわいせつなことをしてもいいと、毎回2名の女弁護士と名城大学卒業の弁護士、それに愛知県教育委員会の雑魚さんが10名くらいいらっしゃる。女弁護士は女性であることを忘れてしまったか、名大寡占の中での名城大出身というその誇りを忘れてしまったか。結局、セクハラをうけたことがないことがいえる議論である。こういう初心貫徹といかない者、驕りる者も久しからず、盛者必衰の理というものもある。

 

私は、京都で臨済宗を学び、自分の家の家宗の曹洞宗(同じ禅宗)についても学びなおした。それは、自分自身の中にHEROがいる、ということだった。今はたった一人でもいつかたくさんの仲間ができるかもしれない。オバマ前大統領が就任の際流したのはマライアキャリーさんのHEROだった。マライアのHERO自体はとても禅宗の考え方に親和的だ。窮地にあった西田幾太郎は哲学の道に「他人は他人、我は我なり。我行く道を我は行くなり」と石碑に書かれている。誰かに教えられるのではなく、内心は自分で育てて磨かないとダメだ。誰かのコピーではない。あなたがオリジナルなのだ。

 

たしかに八方美人、要領のよさ、嫉妬、怨念、いろいろな心情につつまれることがあるかもしれない。「話す相手がいなければ本と対話せよ」「話す相手がないのならば作法を知っている寺にいけ」-誰かにすがったり、人の目ばかりを気にするのは、もう止めにしよう。君は君の道をいけばよい。母親が学校にいけ、というのならば中央図書館や県立図書館で過ごすのも良いし、名城大学図書館は開放しているのではないか。図書館はリベラリズムの最後の砦である。変な施設管理権など行使すべきでないことは明らかである。

 

しかし、私は、決して堕落して人としての道を外して良いとはいっていない。かといっていじめられに中学校にいくのは「社会的ひきこもり」といってやはり無意味だ。学校に居場所がないのなら本当にないのだろう。だけど勉強は大事だ。就職をした後は勉強をする暇がないし、学歴でだいたいの就職先のパイプシステムは日本では決まってしまう。大学の講義式をとるリベラルな予備校などを選んで、勉強させてもらうことも必要かもしれない。その意味で、こどもといえども大人に、親に主張しないといけないときはくるかもしれない。だが、仮に、いじめなどで学校にいけないときがあったとしても、ひたすら今を生き抜くしかない。

 

今だから、分かることもあるし、今だから見えるものもある。簡単にはあきらめない、と心を尽くしてほしい。そして後悔のないようにやってきたとき、未来の自分はきっと今の自分にこういうと思う。未来には希望があること、思っているほど不安ではないこと、だからあきらめないでと誓ってほしいことを。学校にいけないとき、それは本と対話をするときだ。哲学や数学など原理的なもの以外はダメだと思うが、そういう時間だと思うのだ。そして、居場所がなくて人知れず涙をした人は、いつか、何かを奏でる。それを大きくか、小さくかはそれは分からないけど認めてくれるものだ。大人の世界は、何百人もの人間を見抜いていた人の集まりだ。そして君もつか大人になる。思っているほど苦労をしないで成功している人はいない。

 

苦しいけど、神がそういう逆境を乗り越える試練を与えたと思う心の持ちようや、周りの目を気にすることをやめちゃうことから始めよう。いざ旅たちを選ぶときだ。涙をふいて。経済的な事情がある場合はフリースクールに相談しよう。学校つらいなら無理しないで。

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