法の支配と民主主義が対立するときに
法律というのは多数派が決めることだ。したがって民主主義と法の支配が矛盾することはほとんどない。
マドリード対バルセロナの様相を呈してきたカタルーニャ自治州の独立宣言である。
しかし、もともと植民地だった国は独立をしている。すべての独立が許されないとする国際法上の根拠はない。
中世、地中海の大国だったカタルーニャは、今もバレンシアやフランスの一部と言語や文化を共有しており、カタルーニャ語文化圏は、欧州で存在感がある。みな、スペインといえばカタルーニャのサグラダファミリアを思い浮かべるではないか。
多くの人が訪れたこともあるが、私が訪れたときも、海に面しパリに似て芸術家やサブカルチャーに理解があるリベラルな街だった。
本来、強硬な独立心を持つわけではないカタルーニャの人たちを追い込んだのは、他ならぬマドリードである。自治権があるといっても司法権は与えられていない。アメリカの司法積極主義(共和党判事らによる)と司法消極主義(民主党判事らによる)の対立にも似た司法を武器にした自治への介入に問題があったといえる。平成22年、現在の与党は、カタルーニャ州を訴えて、憲法にあたる自治憲章のアイデンティティに関わる部分を違憲としてしまったのである。
現在の首相は汚職疑惑も取り沙汰されており、また、カタルーニャが負担する税負担が公平でないところに、カタルーニャの尊厳を傷つけられた。そして、住民投票の際、無抵抗の住民に暴行を加える警察官の姿は、市民社会と民主主義に対する否定として、世界に衝撃を与えた。ああした姿をみるとバルセロナのアンチテロデモ行進に皇太子が参加したことも偽善にも思えてくる側面も否定できない。
もっとも、悲劇的なことは、カタルーニャに仲裁を申し出る国はいないということだ。ヨーロッパ諸国は多かれ少なかれ、統合の歴史なのであり、独立運動をかかえている。しかし、EUが何もしなければ巨大官僚組織の独裁との批判も出てくるだろう。
日本の沖縄もそうであるが、マイノリティ地域にどのように接していくのか、各国政府の中央当局に難しい課題を突き付けたといえる。
誰もリベラルな街で流血の惨事は見たくない。各新聞の社説は横並びで話し合いをと論述する。しかし話し合えないからこの事態を招いた。
だが、本当に勝ち取りたいものがあるのであれば、すべてをかけてでも投げ出してでもやり遂げなければならないこともあるのではないか。それくらいの本気度がなければEUも動かないだろう。そしてそれをすることこそマイノリティやリベラルに寛容の街、バルセロナの本懐であるのではないか。